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2004年10月06日

「葬儀」は担当者の作品(加藤直美)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

「子供は家庭の作品である」子供は良くも悪くも親のやりかたのすべてを見て聞いて育つ。2人の息子を持つ私も一応親である。私の背丈を当に抜かした息子たちを見るにつけ、その一挙手一投足、ついでに一文言に、「ああ・・・失敗した」と思うことは随分と多い。「子育てに成功は無い・・・?」と言われるが、我が子はもちろんのこと、人を育てるということはそう簡単なことではない。

以前エッセイで、「葬儀社社員は、紛れも無く会社の作品である」と書いた。社長の考え方、上司のやり方を良くも悪くもすべてインプットして育とうとする。少なくともかなりの影響を受けることだけは間違いないだろう。それでは「葬儀」は誰の作品だろう。様々な考え方があっていい。ここでは「担当者の作品」という切り口で書いてみよう。

派遣社員として仕事をしていた時代に、私は月10本余りの仕事をした。そのほとんどを違う葬儀社様に伺っていた。同じ葬儀社に行っても担当者が違った。ということは年に平均100本の仕事をしたとして100人の担当者の100通りのやり方を見てきたことになる。ずばり言えることは「担当者が変われば、葬儀の雰囲気が変わる」その担当者の持ち味が葬儀の中に表れるのだ。その人が、葬儀の仕事をどのような形で始め成長して来たか。誰に教えてもらい、何を学ぼうと努力し、どのように怒られ叱られ注意され、又は、何も手をかけてもらえずにここまで来たかが、すべて現象となって表れる。

遺族や喪主、お客様、スタッフや業者、他のすべての人々と、どのような言葉のやり取りが行なわれるか。どんな態度、表情、動きをするかが、葬儀のすべての空気や雰囲気を作るのだ。担当者の落ち着いた態度からは静かで厳かな葬儀が生まれ、バタバタとした動きからは落ち着かないザワザワとした葬儀が生まれる。これは本当だ。どんなに周りが落ち着いていても、担当者一人で葬儀をかき回していることもある。逆に周りのスタッフが葬儀の現場に慣れていなくても、担当者の技量で上手くその場を切り抜けることもある。
担当者は、葬儀のプロデューサー。いつ何が起こっても、慌てず、焦らず、どっしりと身体も気持ちもそこにいて欲しい。これには相応の年月と修行が必要だ。

「鉄は熱い内に打て!」
「葬儀屋は、日が浅い内に苦労しろ!」
「修羅場をくぐることこそが、自分を作る」
「失敗は最高の贈り物。すべて自分の糧になる!」
葬儀を船に例えれば、キャプテンである担当者が、港を出た全員が溺れないように、迷わないように、お別れの儀式という静かな航海を経て、無事に寄港できるよう舵取りしてもらえることを いつも私は願っている。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2004年10月06日 00:41

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