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2005年04月25日

ちょっと懐かしい人たちの葬儀司会(井手一男)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

何年前になるだろうか・・・もう5年は経つだろう。
ある組の幹部が獄中で亡くなり、その本葬の司会を依頼されたことがある。
これがパプニングの連続で、いろいろと振り回された。

まず、当初予約していた都内の大きなお寺の式場は、
直前になってキャンセルされた。
当局からの圧力か、それとも寺独自の判断かは定かではないが、
私が担当者から聞いた話では、当局(警察)からの指導があったようである。

実はその数年前・・・
都内の民間斎場で、やはりその筋の人たちのお葬式で発砲事件が相次いだ。
出棺前の挨拶時の無防備な態勢を狙い撃ちしたようである。
これを受けて民間の斎場は、暴力団の斎場施設利用を制限していた。
一般の方たちへの配慮であろう。

そんなわけで、キャンセルされた事情を説明に親分のところへ行くと、
昔は、そんな“はねっかえり”は押さえられたという。
しかもお葬式の現場で闇討ちするようなことは絶対になかったと・・・。
しかし今は、個人的な恨みなどで突っ走る奴がいて困ったもんだと・・・。
ただ関西から大勢の幹部が来ることになっているし、
スケジュールの変更は絶対出来ないという。
さらに礼状に印刷されたエンブレムが、白黒ではNGだと言うではないか。
シルバーでなければ正式ではないのだと・・・。
(余談だが、このエンブレムの入った名刺交換は、
冠婚葬祭・出所祝い・総会の時以外は認められてないらしい)

礼状のエンブレムは手配するとしても、急いで式場探しをしなければならない。
親分から出された条件は、どうしても〈都内〉ということだった。
しかし悉く断られ、ホトホト困り果てた担当者は、意図的に事情を隠し、
個人名で都内のはずれの葬祭ホールを借りたのである。
背に腹はかえられない、とはこのことか。
しかも、通夜は4時から!
「井手さん、大丈夫ですよね」
「大丈夫じゃなくても、大丈夫にします」
というわけで、通夜当日は午後の1時から現場で待機することになった。
(まるで葬儀の時間帯だよ)

・・・話は40年近く遡る。(舞台は私の故郷、川筋だ)
以前にも私は父親と二人暮しだったことは書いたが、
その父が任侠の世界に生きる男だったのだ。
古い写真を見れば、どこかの組の本葬らしき現場で、
亡くなった親分の写真を父が抱いて、その両脇に屈強な男が二人立っている。
二人の男は、やじろべえのように少し両手を広げ拳をぎゅっと握り締めている。
中央にでんと座った父を、取り囲むようなスリーショットの記念写真。
その写真を見た瞬間、「完璧だ!」と誰もが口にするだろう。

私の小学生時代は、毎日とは言わないが、学校帰りは自宅には帰らず、
白一色に天竺を敷き詰められた、花札あるいは手本引きの賭博場が
帰宅場所だった時期がある。(父がそこに居たからだ。)
若い衆からそこで宿題を習い、日本の賭博に夢中になった外人の子供と
チャンバラ遊びをし・・・
その手加減のなさには驚いた。本気でオモチャの刀を振り回すものだから危なく
て仕方なかったが、その子の持っている外国のチョコレートは日本製と違って
苦味があり、何か本格的な異国の香りがしたものだ
・・・時には賭場に泊まって、翌朝そ知らぬ顔で登校したものだ。

当時、我が家の各部屋には、鴨居に鉾(ほこ)が掛かっていて、洋服ダンスの
一番下の引き出しを抜き出せば、匕首(あいくち)が収められていた。
(どれも武器じゃん)
のみならず、何に使うのかご丁寧にガスマスクまで見たことがある。(後は秘密)
亡くなった兄の背中一面の刺青は未だに忘れられないし、
何処へ行くにもタクシーを乗り回していた無茶苦茶な生活をしていた、と思う。
(いろいろとあるけど、詳細はその内ね)

・・・どこか懐かしむ気持ちが働いたのだろうか。
葬祭ホールへ向かうと、入り口の両脇はその筋の人たちで埋め尽くされていた。
こんな時は堂々と中央突破だ。
(青春の門でもそんな雰囲気だもんね)
睨み付ける様な視線が痛いほど懐かしい。
(と思ったらやっぱり、ちょっと怖い)
で、会場へ入りホールの事務所へ挨拶に伺うと、かなり怒っている。
(まあ、そりぁそうだろう。でも俺のせいじゃないよ、ごめんね)

ホールの中は異様な男たちの熱気に包まれている。
椅子に座った男たちは、その誰もが、
7人掛けの電車のシートに3人位しか座れない程大股を広げて、
あちこちにガンを飛ばしていた。
(この世界も大変なんだなあ)
充満する煙草の煙とドスの利いた声が混ざり合って、
高倉健のシネマの世界に紛れ込んだようだ。
それぞれの組があり、内輪揉めが無いことを祈る。

と、担当者が飛んできて、どうやら4課(暴力団事件担当)にバレて、
話があるのですぐ来るように言われたらしい。(あーあ、どないしょ)
行けば、式自体を30分で終われと言う。
それ以上は決して認めないと言うのだ。
(しかも名刺を出せと言われ、ちょっと脅された感じ・・・)
取り敢えず了解して、すぐにホールで待っている親分に相談だ。

「そんなこと言いやがったか」
「はい」
(いつの間にか子分になりきっている私)
「ほな、10分前倒しでスタートだ!・・・サツにはこれでな」
と、ぶっとい人差し指を口に当てる仕草が少しかわいらしい。
「はいっ」

親分はとても素晴らしいアイデアを思い付いたかのように指示を出してくれた。
つまり、当局には内緒で、10分前(3時50分)から通夜を始めるのだ。
この当局には内緒というのが、敵を出し抜く感じがして堪らなくいい感じ。
まだ日は煌々と昇っているが・・・。
待機している僧侶に相談に行くと、もうスタンバイが出来ていた。
(こんな時は、坊さんも文句は言わない)
お清めの席も一切中止である。
さあ、やっと流れが決まった。
ほなやったるでー!

開式の辞を宣言・・・と同時に親分からすぐさま目で合図が出て、
すぐに自由焼香と相成った。(自由焼香って言うんですよ)
心なしか導師の声が上ずっているのは気のせいか。
参列者も言い含められていたのか、早い早い、その焼香の回り方の速さは、
早回りしすぎてバターになるくらいだった。
(きっと日本記録が出ていたに違いない)

アッという間に・・・そして、無事に済んだ。
焼香後の解散も見事なほど迅速だった。
(それこそ逃げるように)
時計を見れば、4時25分・・・してやったり。
ふと見れば、葬祭ホールの周りは赤色灯で囲まれている。
完全に包囲され、複雑な気持ちのまま、コソコソと帰路に着いた。

〈そしてオマケ〉
今日(このエッセイを書いた日)九州のユカっちから電話があった。
お父さんが入院しているらしい。
大変お世話になった方である。
5年ほど前から病気で、心を痛めていたのだが・・・。
何とか回復して欲しい。
でも何かあったら飛んでいくつもりだ。
そんな時は、どうかセミナーとは重ならないで欲しいと祈るばかりだ。
一昨年、岳父が亡くなった時も、三重で研修をしていた。
その翌日も帰れずに、愛知で研修をしていた。
2日遅れで対面し、申し訳ない気持ちで一杯だった。
因果な商売である、そんなことを考えていたら、
今日のようなエッセイになったのだ。
遥か西の空に向かって、回復を祈るばかりである。
お父さん、頑張って!

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2005年04月25日 10:49

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