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2005年10月05日

岩手研修報告 (井手 一男)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

先週、工場長と時を同じくして私も岩手県は盛岡市内に入りました。
前泊で入りましたので、駅前のぴょんぴょん舎で冷麺を食べ、
自宅へ大量に送りました。(うまいわ)
しっかり栄養を摂って翌日に備えます。
ホールを会場としての初級~中級の葬儀司会研修会。
受講者20名の予定でしたが、当日仕事が入り2名のキャンセル。
結局18名での研修会となりました。



参加者の実務キャリアは、0年から10年と幅広く、
そのため初級~中級という間口の広い講義内容になってしまいました。
キャリアの浅い人には、少々きつかったかもしれません。
しかし会場となったホールはまだ真新しく立派で、大変ステキでした。

この受講生の中に、僅かキャリア2年の女性でキラリと光る逸材が。
研修会場となったホールに勤めていらした方ですが、表現理論をマスターして、
音声ライブラリをたくさん聴けば、さらに上達するのは間違いない。
10月の神奈川平塚でのレベルアップ研修にもご参加予定なので楽しみです。

 

また聞くところによると岩手県は寺院の力が圧倒的に強く、
ホールでのセレモニーを認めたがらない寺院が多いとか。
(因みに岩手県内には曹洞宗が一番多いようです)
遺族の意向を確認する以前に、寺院の住職がホールでの葬儀を
徹底的に拒否するらしいのです。
・・・何の権限があるのでしょうかねえ。
葬儀を故人や遺族中心ではなく、僧侶中心に考えているのでは。
であるならば、宗教者として恥ずかしい限りです。
絶対にホール葬が良いとは限りませんが、選択権は遺族にあると思います。

研修の中で話に出た一つの例ですが、寺院の本堂で執り行われたそのご葬儀は、
畳敷きの上に遺族・親族が正座し、導師は椅子(曲禄)だとか。
そして焼香も立ち焼香になるそうです。
遺族・親族・参列者は、焼香の際に立ち上がり、焼香後にまた正座。
これはバランスとしては大変おかしいですね。
正座の苦しみを和らげるために、時代劇でお殿様が使うような「あんど」
というお尻の下に置くものなどを用意するみたいですが、
長時間になるとあまり効き目はありません。(弊社にもございますので)
「正座の出来ない奴は、葬儀に参加しなくてもよい」等と、
信じられないような暴言を吐く住職もおられるとか。
(私だったら間違いなく喧嘩になっているでしょうね)
実際に喪主の方の足が不自由で、葬儀担当者が事情を説明し、
お願いにお願いを重ねて、やっと「今回だけだぞ」と特例を認めてくださり、
その方だけに限り椅子に座っていただいたこともあるとか。
自分は椅子(曲禄)に腰掛けていながら何たることか。
何やら聞けば聞くほどおかしな話で、一体誰のご葬儀なのか、
何のための宗教者なのか・・・皆さんはどう思われますか。
(こんな導師がいるから宗教が嫌われるんですよね・・・残念)

さて我々は仕事柄、様々な葬儀社様から司会の依頼がございます。
ですから担当葬儀社が異なる別々のお葬式で(当然施行日も違いますが)、
導師を務める僧侶が同じ場合が結構あります。
こちらとしては、「あっ先日の○○家のご葬儀の導師だ」と思うわけですが、
不思議なことに先方の態度がまるで違うことがあるのです。
まるで別人のようです。
何か気に障ることがあって、たまたま機嫌でも悪いのかなと思っていましたが、
様々な導師で似たような現象があることから、別の理由を考えました。

もちろんこの事を一口に論じるわけにはいきません。
単純な比較が出来ないことは百も承知ですが、それでも長い経験上
ある程度のデータらしきものは感じることが出来ます。
まったくの私見になりますけど、県内有数の、例えば大手の互助会さんで
面的展開で数箇所のホールを持ち、年間施行件数が2.000~3.000を超える
くらいになると、露骨に力関係がでるようです。
寺院の方がこの葬儀社から檀家の紹介を受けるケースが圧倒的に多くなると、
葬祭担当者に対してあからさまに平身低頭ですが、
一方、個人経営で月10件程度の施行件数の葬儀社に対しては、
それほどのメリットを感じないのでしょうか、
割と踏ん反り返っているケースが目立ちます。
(古株の担当者とは旧知で仲良くしていることもありますよ)
いい加減なデータとして極論すれば、
年間施行件数がその寺の檀家数を超えれば葬儀社優位のような・・・。
(あくまでも私見ですからね)
ついでに言えば、怖い筋の人達に対しても急に弱くなる人もいますね。
普段が普段だけに、これはちょっとみっともない。

正座の話に戻しましょう。
私は試験勉強の一環で正座の練習をしました。
わざわざ練習するところがもういけません。
普段からお勤めをしていない証拠です。
ただ試験の時だけは、正座が必要になりますので特訓をしたのです。
家族が止めるのも聞かずに、フローリングで毎日10分、20分と
少しずつ正座の時間を延ばしていくのです。
1時間ほど持つようになった頃、立ち上がった瞬間左ひざの裏に激痛が。
お陰で6月の試験は大変でした。
最近完治したばかりです。(年取ると治りが遅い)

これは真宗の話ですが、真宗は「平座」といいまして、
簡単に言うと、導師も遺族も参列者も皆平等という発想なんです。
また僧侶になるための学校には、義足の人もいましたよ。
実際に私の級友が片足だけ義足でして、正座の際に膝から下の義足を抜いて、
自分のお尻の下に、「あんど」のようにして差し込んでいました。
彼は出来る限りの努力をしていたと思います。
講義やお勤めの修行の中では、正しい姿形という観点から
正座を勧める事はもちろんですが、強制は致しません。
それは形よりももっと大切なことがあるからでしょうし、
強制すれば、すなわちそれは「自力」に繋がるからでしょうね。

いずれにしても、ご葬儀の形態やその進め方は遺族中心であるべき。
寺でもないし、葬儀社でもない・・・はずです。

<井手の割り込み>
先日、<ベネッセコーポレーション>と<明治安田生命>が
相次いで子供の名前ランキングを発表した。
前者の統計によると男の子の1位は「颯太」で女の子が「陽菜」(ひな・はるな)。
後者では男の子が「蓮」で、女の子は「さくら」と「美咲」同率1位。
多少統計に違いが出ていますが、ベスト10の名前は似たり寄ったりです。
男の子なら・・・「翔太」「拓海」「優斗」「陸」「翼」「翔」「颯太」
女の子なら・・・「凛」「七海」「未来」「葵」「結衣」「ひなた」「花音」
私から見ると、アニメの世界のお話のようです。

で面白い事を発見したのですが、
大正元年の男の子1位は、正一。(へえ)
大正2年は・・・正二。(うそ)
大正三年は・・・まさかと思ったら正三。
昔の人は名前の付け方分かりやす過ぎ、もっと気合入れて欲しいね。
そして大正4年に栄えある1位に輝いたのが「清」で、
この清はその後大正15年(昭和元年)までに9回V達成。
(世の中清だらけだって)
そしてまた、昭和2年は「昭二」で昭和3年が「昭三」と、
大正時代の繰り返しです。(これには笑えます)
元号にあやかりたい気持ちは理解できますが、それにしてもねえ。

そして人類史上最大の世界戦争、第二次世界大戦の火蓋が気って落とされる
昭和14年から昭和16年までの3年間が時代を反映して「勇」。
昭和17年から終戦の年20年までが「勝」。
戦後の復興期の26年から29年までは「茂」のV3。
32年から42年までの間に「誠」がV9。
「誠」はその後も強く、54年の「大輔」登場までは42年以降もV9。
大輔は61年まで8連覇。(荒木大輔投手の影響も?)
それ以降、現在の人気上位を占める、「達也」「翔太」「拓也」「健太」「翔」
などを経て今日に至っているのです。

当然女の子の名前も昭和2年に「和子」がトップに躍り出ると連戦連勝を重ね、
20年までにV18。(これ凄過ぎ)
戦後も和子は強く、「恵子」という強力なライバルの登場で
やっとその座を奪われるのです。
その後は「由美子」と「陽子」と「久美子」と「直美」(どこかで見た名前)。
58年に「愛」がデビューするや8連覇。
平成に入ってからは「美咲」が6連覇。
平成9年以降に今の名前の流れになったようです。(この年は「明日香」)

名前と時代の関係は実に面白い。
その時代の人々が求めていた人間像が浮かび上がります。
因みに私は昭和34年の福岡生まれ。(さそり座・A型・・・どや!)
私のクラスには必ずといってよいほど、「和久」か「九州男」がいました。
それは前年(33年)の西鉄対巨人の日本シリーズに由来します。
西鉄3連敗から奇跡の4連勝。
神様・仏様・稲尾様と騒がれたシリーズです。
稲尾和久投手にあやかって「和久」、また九州の地でもあり、
当時のトップバッターの田中九州男選手から貰って「九州男」。

面白いですね、では。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2005年10月05日 18:58

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