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2005年11月23日

研修報告 (井手 一男)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

11月8日から11日まで、3泊4日で新潟県内に滞在した。
(他団体での司会研修が重なったためだ)
寒かったり、暖かかったりと・・・日毎に変わる天候に体調を崩しそうになる。
スケジュールの開いた日に街を散策すれば、(運動不足になりそうだからね)
もうすっかり晩秋の気配が漂っていました。


 


9月に「司会研修ステップ1」この11月に「司会研修ステップ2」と、
適度な間隔を空けての同じ受講生による連続開催。
過去の経験から、同じ受講生で2回目を・・・と事務局が予定していても、
かなりの人が入れ替わるものだが、今回の受講生は1人のみが初参加。
もう少しでパーフェクト達成だった。(あわや世界一周旅行・・・嘘)
そして今回も、80ページ程のカラーバージョンのテキストである。
いやあ、意気込みを感じますね・・・充実 !

まずは前回の復習からと、発声練習の右脳トレーニング。
・・・オッ、結構出来ている。半分以上の人がクリアしているようだ。
実はこの発声練習はかなりレベルが高い。
(因みに石川も加藤もかなり苦労したのです)
アナウンス専門学校より高いレベルを「ステップ1」に持ってきているのだが、
それだけに各自が自主的に取り組まないと達成できないのだ。
カラー版テキストの装丁だけではなく、受講生の「やる気」を感じた瞬間だ。
(今日はいけるかもね・・・そんな予感)

こうなると研修会自体が楽しくなってくる。
教えることに対する吸収力があるので、上達が早い、早い。
実務経験わずか数ヶ月の面々が、音の流れを自在に操りだした。
口跡が切れるから、自分のアナウンスをコントロールすることが可能なのだ。
考えてみれば「ステップ1」(結構厳しくやっています)を受けた数ヵ月後に、
「ステップ2」に欠席せず参加するという事は、ヤル気も感じられるし、
自主レッスンを積んだ証であろう・・・だから出席率が良いのか。


 


例によって【FUNET】から「司会音声トレーニング」を浴びせ続けた。
「言葉」と「音の流れ」をキャッチすることが出来て、
自分の音声をコントロールする筋力がついてきたならば、
お手本を聞きまくって耳で覚え、自分のものとして体得するのは容易い。
「基本アナウンス」「弔電」「イメージショット」・・・と、
いくつもの実演課題を課したが、半数以上の受講生が次々とクリアしていく。
こんなに出来が良い研修も久々である。心地良い疲れ方をした。
スピーカーやCDデッキやマイク設備・・・と
ご無理を言って様々な備品を揃えていただいた事務局に感謝したい。

それにしても新潟には方言があまりないような感じがする。
葬儀がホール施行中心に移行してから、方言丸出しの司会が極端に減った。
研修で全国へ呼んでいただいているが、青森、秋田、岩手、宮城辺りは、
特に女性の司会者になるとまず方言を使わない。
関東近辺ではもちろん、名古屋エリアの手前までは標準語が基本のようである。
マクドナルドを「マック」と言わずに「マクド」と略する地域になると
どうも方言の比率が上がるようだ。(私見ですよ)
(この際マックの無い地方は省きます・・・ごめんね)
総じて関西地方は方言が多く混じった葬儀司会のようだ。
これはこれで臨場感があって良いし、標準語だと逆に違和感が残るだろう。
北部九州及びその影響下の広島近辺までは個人差がかなりあって統一感がない。
南九州になると、鹿児島以外は方言での司会が少ないように思う。
そして四国は標準語に近い司会言葉の印象がある。
一般に男性よりも女性、年配よりも若い方の方が、地域を問わず標準語を好む。

話を戻して・・・新潟の受講生に聞いてみた。
「あまり方言無いですね?」
「えっ、そうですか・・・何せ凄い田舎で・・・隣と遠いから」(笑)
隣近所の影響よりも、テレビの影響の方が大ということか。
「テレビは標準語だから・・・」
冗談だろうが、これには大笑いした。
しかし新潟には目立つ方言が少ないのではないだろうか。
案外東京風の葬儀司会がピッタリはまるかもしれない。

県内は浄土真宗が圧倒的に多いという。
そこで禁句とされている「ご冥福」「祈る」「あの世」などについて質問が・・・。
解説をしなければならないだろう。
①「ご冥福」が何故いけないかというと、これは理屈の世界。
「冥」という文字には「暗い」という意味がある。
冥王星という星があるが、遠くにあり、暗いのでなかなか発見できなかった。
冥王星(太陽系の9番目の惑星)の冥はまさにこの意。
ところが、浄土真宗の阿弥陀仏の放つ光は無量であり、誰に対しても
平等であるから、普通考えられるこの世の光とは違って影を作らない。
阿弥陀の光で片方から物を照らしたとしても反対側に影が出来ず、
全体に満遍なく光が射すイメージである。

観無量寿経の有名な一節 (偈文) に、
「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」というのがある。
参道脇などで、しばしば板碑(いたび)に記されているものだ。
<板碑>とは・・・
鎌倉から江戸にかけて、死者の追善供養のために建てた平たい石の卒塔婆で、
上記の偈文などに仏像・梵字(ぼんじ)、年月日・名前などを刻んだものだ。
<十方>とは・・・
東西南北で四方、間に1つずつ入れて計八方、さらに上下(二方)を足して、
合計十方である。仏教では十方で全てを表しています。

そこで「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の意味は・・・
「阿弥陀如来の光り輝くばかりの光明は、あらゆる全ての世界で、念仏を称え
る衆生を救って、捨て去ることはない」ということか。
つまり、光が当たるところと当たらないところがあっては・・・ちとまずい。
そこで、「冥」という文字に対して、禁句の要素が存在してしまう。
しかしながら、「冥福」という意味を辞書で引けば「死後の幸せ」であって、
何も目くじらを立てて坊主が怒るほどのこともあるまい。
「冥福」という語の構成要素である文字に対して過敏になりすぎてはいないか。
これが「冥土」なら確かにまずいかな。
冥土(冥途)・冥界は、死者の行く世界を指し、「あの世」と同じ意味だからだ。
これについては後述する。

要は、葬儀社ならばもっと宗教(儀礼)を学びなさい・・・程度で良いだろう。
度が過ぎれば、それはただの葬儀社イジメである。
自らの布教不足を歎きこそすれ、他人に当たるのはいただけないと私は思う。
こちらも意地悪く言わせていただくと、あの大切な正信偈を
正規の「レ」(D)の音から入れず(大体フラットしている坊主が多い)、
三重念仏の「ラ」(G)の音なんか出ていない僧侶が多いのには呆れる。
お勤めの速度として定められている拍数(テンポ)にしてもまったく早すぎる。
葬儀社や遺族がどうせ分からないと思って、手を抜いたり楽をしたり
してないだろうか、自らは正式に読経もせず、何をか言わんやであろう。
(少し言い過ぎたかもしれないが)

②「祈る」が何故いけないのか。
「祈る」ではなく、浄土真宗としては「念ずる」と言って欲しいのだ。
「祈る」はキリスト教のイメージが強いから・・・が本音だろう。
これに関しては、数年前から教団内部でも議論が交わされているようだ。
というのも或る新聞社がキャンペーンを張った。
広辞苑で「祈る」を紐解けば・・・「念ずる」が出てくるし、
逆に「念ずる」の項目を見ると・・・「祈る」が出てくるのだ。
どちらも、意味はほぼ同じと解釈することも可能なわけです、広辞苑的には。
世間の常識がこうだから・・・浄土真宗・・・ちと分が悪しですな。

宗教的な解釈という言葉を持ち出せばいくらでも逃げ道はある。
しかし宗教的解釈とは、本来、社会常識や秩序とは一線を画し・・・
例えば社会的に極悪非道の悪人であっても、社会的善人と同じ扱いなのです・・・。
宗教上における善悪の判断は、常識や倫理観や国家の法ではなく、
ただ一点、<仏に対しての基準>ですから、仏の前では全員が悪人なのですよ。
この伝家の宝刀を抜かなければ説得出来ないようでは、分が悪いと思いますね。
世間的な言葉のイメージは、「祈る」も「念ずる」も特定の宗教を否定している
わけではなく、ほぼ同義語のように使われているという判断が一般的です。

因みに、浄土はその担当する仏の違いによって名称も異なる。
阿弥陀如来・・・極楽浄土
大日如来・・・密厳浄土
薬師如来・・・東方瑠璃光土など・・・。
浄土とは仏の国を指す言葉であり、仏に応じてその名称も異なるが、
単なる仏の国を指す浄土にしたって多くの別称を持っている。
寂光土(じゃっこうど)、光土(こうど)、安養土、天寿国・・・で、
この天寿国を略して天国と言っても決しておかしくはないだろう。
だって寂光土の略で光土と言うのだから。
喪主や葬儀委員長が挨拶で「天国」と言ったって、悪気なんかないのだから
「天寿国の意味と同じですよ、先生」って言えば良いのだ。
そしてつまり、「祈る」は限りなく「念ずる」に近い。

③「あの世」が何故いけないか。
これは明確、あの世とは浄土 (この場合は極楽) を特定していない。
元来、霊魂やあの世という言葉は葬儀本来の民族的信仰から生まれたものです。
(日本古来のアニミズムから出たものでしょう)
ですから「あの世」という言い方は、死後、漠然と死者の国に行く
と言っているわけで、誰々の仏様の国に行くなんてことは指定していません。
狙いを定めてないから、どの宗派もこの言葉に対しては否定的見解を示します。
「あの世」とは死んだ人が行く所だけど・・・と曖昧なわけです。

因みに問題としている浄土真宗の「阿弥陀仏」の言葉は、
北部インド地方(ネパール辺り)で発生した「アミータ信仰」に由来します。
「ア」とは否定する意味があり、「ミータ」とは数のことです。
ですから直訳すれば「数えることができない」「推し量ることが出来ない」
つまり・・・無量、無数・・・そういったイメージでしょうね。
そして「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、一説によれば、
インドの挨拶言葉の「ナマステ」に源があるのでは・・・とも言われている。
「ナマステ」⇒「南無」と変化して音写したのではと。
「あなたを尊敬します」・・・そんな意味に解されるでしょう。
ですから「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀に帰依します」・・・ですかね。
それなのに、「極楽」と明確に指定しないで「あの世」という言葉で、
漠然と表現するのは違う、と真宗の僧侶は怒るのでしょう。

この他にも「禁句」と称されるものは数多く存在します。
<禁句>とは本来、聞き手の感情を害したり刺激したりするのを
憚って(はばかって)避けるべき言葉や話のこと。
(和歌や俳諧などで、使ってはならない語句)
また「忌み言葉」という縛りも司会者には煩わしく纏わり付きます。
禁句は、宗教上の理由から憚られる(はばかられる)言葉であり、
忌み言葉は、不吉な意味や連想を持つところから意味憚って使用を避ける語。
これだけでも、宗教上の目線と習俗上の目線の二つの視点が必要です。
これらは研修で折に触れテーマとして取り上げさせてもらっています。

今日のエッセイだけを見れば、私が禁句に否定的立場を取っているように
思われるかもしれませんが、決してそうではありません。
宗教儀礼は今以上にもっと重んじるべきだと思います。
何せ故人が受ける権利でもあるわけですからね。
しかしながら葬儀の司会者としての見解を持たずして、
ただ僧侶の指示に従っていればよいかと言うと、それは違うと思っています。

少し話が逸れましたが、本来、宗教家と葬儀司会者は立場が違います。
相手を尊敬することは大切なことですが、意味も分からずに、
この宗派の司会の時には、この言葉を使わなければ良い・・・等と
短絡的に判断しないで欲しい。
そこには葬儀司会者としての成長がありませんし、過去を思い返しても、
その方法で葬儀の司会の中味が濃くなったとは思えません。
僧侶に対して、腫れ物に触るような態度ではなく、おどおどせずに、
もっと質問をぶつけて下さい。
一方的でない、互いに信頼関係を築けるようなお付き合い。(理想)
自信と勇気を持って応対出来る様な司会者になってもらいたいと思いますね。
そうでなければ、悲しみの遺族に対しての充分なフォローは難しいでしょう。

それからもう1つ、葬儀のナレーションで誤解を受けていることがあります。
【FUNET】のナレーションも同様ですが、私は遺族を泣かせるために、
その演出ツールとしてナレーションをしているのではありません。
ましてや技術をひけらかしている訳でもない。

親鸞聖人のお言葉に、次のようなものがあります。
「かなしみにかなしみを添ふるやうには、ゆめゆめとぶらふべからず。
もししからば、とぶらひたるにはあらで・・・・」
長いので要約しますと、
「葬儀や法事の時に、悲しんでいる遺族に対して、さらに悲しみが増すよう
には、決して弔ってはならない。もしそのようにしたならば、慰めたことに
はならず、ますます心寂しくさせてしまうだろう・・・云々」
この文章の中に「忘憂の酒をすすめて・・・」という一説が出できますが、
(親鸞聖人・・・見た目と違って随分洒落た事言いますなあ、酒に忘憂なんて
ネーミングも素敵です・・・このこのロマンチスト、隅に置けないね)
少しばかり忘憂のためのお酒をすすめ、相手に微笑が生まれてくるほどに
慰めて差し上げるのが良いだろう、と結ばれています。
涙に涙を注ぐような過剰な慰めを戒めているのでしょうね。
悲しみに浸り過ぎないように、時には悲しむ心を少し休めることも必要と。

これを葬儀の司会に当てはめるならば、粛々と進行する事をメインにして、
時には悲しみをひと休みして、故人の懐かしい思い出を偲べる程度の
ナレーション演出があっても・・・でしょうか。
賑々(にぎにぎ)しくて、悲しみを誘う場違いな、あざとい演出は必要ないですね。
悲しい時に涙を抑える必要はありませんが、しかし悲しみを深めるばかりでは
なく、時には懐かしく心温まる思い出に浸り、悲しみを少し休んでみる・・・
そして何より確かな拠り所が見つかれば、それは緩和されるでしょう。

渋柿の 渋がそのまま 甘みかな (小林 一茶)
悲しみは人を強くしますし、優しくしますし、人生が豊かになるとも言える。

最後に
「悲しみのプロ」・・・あまり好きな言葉ではありません。
最初この言葉を聞いた時は「泣き女?」と連想したくらいです。
どう解釈すればよいのか・・・「悲しみを癒すプロ」の事だとしたら大間違い。
それなら職業を変えたほうが良いでしょう。
一口に悲しみと言っても、死別の悲しみだけではありません。
世の中には人知れず大きな悲しみを抱えている人が沢山いるでしょう。
葬儀の司会者もスタッフも、その仕事にプライドを持つのは大いに結構ですが、
あまり驕らない方が良いのでは・・・相手が決めることですよ。


<お知らせ>
【FUNET】会員の皆様、どうか追悼文の「高速版」をお試しください。
「基本版」とは仕様も異なっていますが、バージョンアップしております。
3分掛からずに追悼文が完成しますよ。(コンピュータが自動的に判断します)
気に入らなければ、すぐに<戻る>ボタンでやり直せば、
また違う追悼文がすぐに出てきます。(この時は1分も掛かりません)
ナレーション作成システムよりも早いです。(参ったねこりぁ)
それから音声ライブラリに通夜編を3作品アップしています。
こちらも是非お聴きください。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2005年11月23日 13:12

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