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2006年01月22日

葬送BGM第3弾!の作曲が始まりました(加藤直美)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

井手の方から、ナレーション専用のBGMを作曲しろと指令が出ている。
何やらFUNETでも、今後大量にレコーディングをするらしいのだ。
目的をナレーションのBGMに絞った曲作りということか。

3年前に初めて作らせていただいたときには、
初めてということもあり、かなり気合が入った。
作曲なんて、高校時代にフォークソングに夢中になって作った位なもので、
まさかこの年になって曲を作るなんて思いも寄らなかったから。

音楽高校では、ベートーベンやバッハ、モーツアルト、ショパン・・・
クラシックばかりを朝から晩まで弾いていた。
そして楽譜の通りに弾かなくてはいけない
窮屈なクラシックに飽き飽きしていた。
大学に入った途端、歌へ転向しポピュラーやジャズ、ミュージカルばかりを
歌うようになり、それっきり私の専門は「歌」になった。

その私が、葬儀のBGMを作曲するなんて、どうなるかと心配した。
しかし、いざ作り始めたら、出てくる、出てくる・・・。
とめどもなく、私の中から葬儀のBGMが
音符となってが出てくるのには、本当に驚いた。

葬儀の現場に出始めた当初は、ギフト屋さんとして現場修業をした。
その現場では、通夜が終わると会葬者も遺族もお清めの席へ移動して、
葬儀屋さんも一人減り、二人減り・・・最後には担当者と二人だけで
式場に残ることが多かった。
そして担当者も
「ちょっといい?」とタバコを吸いに行ってしまう・・・。

そうすると私は、ご遺体と二人?だけで式場に残される。
そんな時によく私は、故人と会話をしていた。
故人には「どんな人生でしたか?」
「みんな、あちらのお部屋で楽しそうですね」
「寂しくないですか?」などと話しかけていた。
その内に、話すことが無くなると
「ふるさと」「母さんの歌」「浜辺のうた」を歌ったり
(もちろん小さな声でつぶやくように)
即興のハミングを口ずさんでいた。
私の中では「故人に向けての献奏」という意識だった。

いつでも葬儀の雰囲気と私の中の感性がつながると、それは音楽に通じる。
葬儀のBGM用の曲も、現場でどんどん浮かんで来た。
その時の故人のお写真、お人柄、式場の雰囲気、花祭壇やお香の香り・・・。
今でも私にとって、葬儀の環境の全部が曲を作る材料となる。

今回の作曲は、ホスピスや病院での音楽サポート体験が大きく影響している。
ホスピスに伺うようになってから見送った方も多い。
その方たちへの想いだけでも、私の中にある「音の引きだし」は
今にも溢れそうだった。
五線紙を目の前に、ピアノを弾きながら作曲が始まったら、
あっという間に7曲が出来た。
音符が一気に洪水のように流れ出した感じだ。

ホスピスでの音楽サポートで、一番勉強になっているのは、
「音楽は、こちら側の趣味、嗜好で押しつけるものでは無い」ということだ。
もちろん私の中での一定のコンセプトは必要だ。
しかしそれが100%成功するとは限らないという謙虚さが求められる。
その時の患者様の雰囲気、息づかい、状態を見て、
日本の歌にしたり、外国のものにしたり、歌謡曲にしたり、歌を混ぜたり、
合唱になったり・・・選曲や表現にも幅を持つこと・・・。

葬儀はイベントではなく儀式だ。
そこにある「想い」が主役であり、音が目立って主張してはいけない。
極端な言い方だが、音楽も時には凶器になることがあるということ。
葬儀の中での音楽演出は、「最低限でいい」と主張したい。
葬儀演出の中で、音楽はあくまでもひとつのパーツにすぎない。
葬儀でのすべての演出の根っこにあるものは、
「想い」「言葉」「静かな時間」の3つ。
そこに寄り添うように音楽が存在する。

今回のBGM制作コンセプトは「ナレーション専用BGM」。
葬儀において司会者の「言葉の力」は、葬儀そのものの雰囲気を作る。
全体の空気作りには、司会者の言葉がものすごく大きな影響を与える。
そしてその言葉に、そっと寄り添うような曲作りをしたいと思っている。

司会者のナレーションを包み込むようなやさしさと、
ナレーション言葉が際立つような暖かさが伝わるBGMを作りたい。
そして今は亡き多くの方々のために、心からの哀悼を曲に織り込もう。
これからしばらくは、血液中を音符が流れるような、
音楽にどっぷりとつかった幸せな時間だ。
出来上がりをどうぞ楽しみにしていてください!


<井手の割り込み>
今日は通夜の準備があるので忙しい、だから雑感で許してちょ。
忌み言葉にもいろいろあるけれど、こんなものもあったのか・・・というお話。

果物の梨のことを「ありの実」って言いますか?
私は聞いたことがなくて驚きました。
「梨」は「無し」に通じるからだと言うんですが、面白いね。

それから飲み屋で、「スルメ」の事を「アタリメ」というのも同じ理屈。
スルメの「する」がよくないらしいけど、
だからといって「当たり」というのも短絡的過ぎて、発想が面白い。
芸能界の「わんばんこ」みたい。
いつでも「おはようございます」と挨拶するべきなのだろうが、
さすがに時間帯によっては、「こんばんは」の逆読み挨拶は存在する。
(親しい間柄だけだけどね)

植物の葦(あし)は、「悪し」(あし)に通じる、ということで、
何と「良し」つまり葦(よし)に変えられてしまいました。
(こんなのありかよ・・・そんな感じでしょ)
漫画コチカメの亀有も、元来は亀梨という地名だったとか。(へえー)

こんな調子で言葉を全部変えていったら、
まず日本語から「なし」「あし」「する」という言葉が消滅するでしょう。
あっいけねえ、「消滅あたりでしょう」

もひとつ。
飛鳥と書いて、どうして「あすか」と読むのでしょう。
そもそもは、飛鳥と書いて「あすか」とは読みませんでした。
飛鳥は、明日香(あすか)の枕詞だったのです。
つまり、本来は「飛鳥の明日香」だったのですが、
いつの間にか飛鳥だけで「あすか」と読むようになりました。

同様のものに、「長谷」(はせ)があります。
長谷は初瀬の枕詞で、「長谷の初瀬」だったものが、
これもいつの間にか「長谷」だけで「はせ」と読むようになったのです。

人間が使う言葉はいい加減ですね。
そしたら「垂乳根(たらちね)」と書いて「はは(母)」と読めば面白いのに。
その内、「たらちね」⇒「たれちち」とかに変化するに決まってる。

「ら抜き」言葉も面白いですよ。
部下が部長に正しい敬語で (車に乗っていて、運転は部長です)
部下 「部長、あのスペースに止められますか?」
部長 「俺の運転技術を疑っているのか!」
部下の言葉遣いは正しいのですが、現代では言葉が乱れていますから
こんな風に部長が運転能力を問われていると思い、腹を立てる可能性が大です。
正しい敬語を使って怒られるかもしれない、という例でした。

最後に
富山県では(一部の地域かもしれませんが)、
お葬式の際に、でっかいドラ焼きを配ることがあると聞きました。
葬式饅頭みたいなものなのかなと想像してますが、
実物を見たことも、食べたこともありません。
元来甘いものは贅沢品だったですからね。
今年はお目にかかりたいものです。
(富山、呼んでくれ ! )

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2006年01月22日 16:44

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