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2006年03月15日

<困った導師たち2>

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

仏教は、生死(しょうじ)を苦と前提し(生死とは人生そのもの)、
つまりこの娑婆世界が苦しみに満ちているという認識から出発して、
その原因を自身の気持ちの持ち方にあるとし、
心と行いを整えてその苦しみから脱しようとする教え。
だって煩悩とは、心身を煩わし(わずらわし)悩ますものですから。

でも…煩悩が袈裟を着ていたら迷惑だね。

通夜・葬儀は、ハイヤーで寺まで迎えを寄越せという。
勿論その費用は遺族の負担だ。

葬儀は、自分の寺でなければ行わないという。
遺族が葬祭ホールを使いたいと希望しても認めないと。

お葬式の際に、担当者や司会者を苦しめてどうするのだ。
ましてや遺族や参列者にまで迷惑を掛けるとは。
短気で傲慢で、自らの立場しか考慮しない導師が存在するとは。

仏教は中庸が良いのです。
一方の苦しみを理解し、他方の苦しみを理解し、
どちらかが相手に勝つのではなく、上手に和解の道を探る。
決して勝利を求めるためのものではないはず。
悲しみの遺族の思い、愛する者を亡くした慟哭が届いているのか。
少なくとも、人の気持ちが分かる人間でなければ。

道ですれ違ったお婆ちゃんに手を合わされた。
お前に手を合わしてるんじゃない、衣と袈裟に手を合わせてるんだ。

この際多くは期待しません。葬式坊主でもなんでもいいから、
せめて袈裟を着けた時だけは人格者で振舞って欲しいですな。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2006年03月15日 00:12

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