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2005年08月12日

病院スタッフの接遇(加藤直美)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

5月に長年闘病中だった叔母が亡くなった。
叔母は生涯独身だった。
叔母の兄弟が高齢で遠くに住んでいることもあり、
見送ったのは主人と私と従兄弟の3人。
亡くなった場所は、闘病した病院ではなく、急変で運ばれた救急病院だった。
今となって考えても、その病院側と私たち遺族のやりとりには
あまりにも不快さが残る。

私たちが、叔母の容態が急変して
間もなく亡くなったという連絡を受けたときには、すでに夜遅かった。
その日は昼間にその病院に叔母の様子を見に行き、
2時間近くかけて自宅に戻った直後だった。
昼間にはすでに機械で生きながらえていた叔母の呼吸器をどうするかを
主治医と話したばかりだった。
その主治医と立ち会った看護師長も、
人の話を聞こうとする神経を持ち合わせていない人たちだった。
一方的に自分たちの言いたいことだけを話して
「あとは、明日以降、院長に聞いてください」というばかりだった。
今は落ち着いて思い出せるが、その話の中で「許せない言動」が多かった。
主治医は
「色々と、葬式のことだって考えなくちゃいけないことは分かっていますよ」
と、まだ亡くなってもいないのにそういう言い方をした。
それから、
「救急車で運ばれて来たら、生かさなきゃならないんですよ。こっちは・・・」
という言い方もした。
病棟の中に響きわたるような大きな声で、
隣の病室では聞いている入院患者がいるだろううに・・・。
一方的に、そのようなことを言われながら、私の気持ちはすごく冷めていた。
そして「こんな怒るような言い方をしなくてもいいのに・・・」とか
「他の言い方だってあるだろうに・・・」などと考えていた。
すでにその時、初めて行ったその病院に対しての何から何までが
不信感となって、これ以上の「心の満足」を放棄していた。
この病院やスタッフに、人間的な暖かさを求めようなどという考えは
あきらめたのだ。
人は辛い思いをしたくないという時に、
その気持ちを「麻痺」させる術を持っている。
これ以上期待をしないというのも自分が傷つかないための一つの術なのだ。

そして臨終の電話で、明日の朝まで預かってもらうことをお願いすると、
その病院の事務長は「遺体は預かりますけれど、じゃあ、何時に来るんですか?」
と私に詰問した。
一瞬私がどうしようか口ごもると
「時間が分からなきゃ、葬儀屋さんにだって連絡出来ないでしょう!」
と言った。
私は叔母を亡くした悲しみの中で
<病院側の思う壷にははまらない>ということを強く思っていた。
私たちは前もって葬儀社を決めていた。
案の定、その病院の関係者は、
迎えに来てくれた葬儀社にまで冷たい態度をとった。
ここまで落ちた病院スタッフの接遇サービスの根底にある気持ちは、
何なのだろう・・・。

同じ質のサービスを提供されるとしても、
患者は病院スタッフを選ぶことは出来ない。
同じように、遺族は葬儀担当者を選べない。
「あーあ、今回はハズれたなあ・・・」と思うだけではすまされないのだ。

私達が、葬儀という場面で出会うご遺族が、
大切な方を看取る前後にどのような環境の中にいて、
何を感じて、何を安らぎとして、何が心の支えになっているのか、
そしてどのように葬儀という場面に臨んで来るのかなど等・・・。
ホスピタリティ分野で仕事をするスタッフの接遇を
「病院~フューネラル」という時間経過で考えたいと思ったのが、
今回の病院ボランティアに踏み切る大きなきっかけでもあった。
すでに現在2回の病院現場実践を通して、
とても深い意義のある体験をしている。

又、この紙面で、医療現場での接遇実践をレポートして行こうと思っている。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2005年08月12日 00:12

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