2007年11月08日

密葬の定義って? (名無しの関西)

いつも楽しく拝見いたしております。私はとある葬儀社に勤めている若者です。
先日、著名人の逝去のニュースが伝えられましたが、
その際、通夜・告別式は密葬で執り行われ・・・と報道されていました。
しかし、昔の芸人仲間さんなどが弔問に訪れる姿が映し出されていました。
それでも「密葬」なのでしょうか?
私は家族や近親者以外には知らせず、式も家族だけでひっそりと行うものが、
密葬だと理解しておりましたが・・・最近、私の仕事においても、
密葬で送り出したいとおっしゃいながら、近所の方々に受付などお世話になったり、
会葬礼状や返しの品を用意してほしいと頼まれたりもします。
「密葬」という定義がよくわかりません。詳しく教えていただければ幸いです。

ご質問ありがとうございます。
掲載が遅れて申し訳ございません。
実は改めて、昨今流行の「家族葬」との関係も考えさせられました。

まず密葬とは、「故人の身内以外には告知せずに執り行われる葬儀であり、
したがって告別式は行われない」葬儀です。
そして密葬の後には、本葬がセットされている場合が多いと考えられます。
本葬では、告別式がセットされていますから。

この密葬という概念は、消費者には馴染まず、理解しづらいものがあるようで、
一般的に小規模に行う葬儀を、何となく密葬とよんでいるようです。
小規模というのは、親しい知人も含めているようなのです。
ここでの違いは、密葬なのに本葬がなく(ない場合が多く)告別式がある。
つまり、葬儀を提供する側からの理屈と、提供される側の理屈がしっくりいっていない。
ピントが合ってないというか、焦点がボケてるというか、
ここが一番の問題点だったのではないでしょうか?

そこへ家族葬という優しいネーミングの葬儀が登場します。
この際中身は無視した話ですが、その葬儀の形態から比較すると、
かつて消費者側が密葬に託した思いが、嘘みたいにピッタリ嵌まったのです。
(ちょっとオーバーかもしれません)
さらに少子高齢化や地域社会密着度の変化など構造的なもの、
また無宗教葬の増加など…様々な状況が家族葬に追い風を吹かせているようです。

葬儀社サイドから見れば、密葬ならば告知の看板や案内状はないものと思うし、
当然本葬が控えていると思うでしょうが、消費者との間にズレがあり、
そのズレは今に始まったことではありません。
葬祭業務をサービス業として捉えるなら、消費者の視点に立って物事を進めましょう。
それが今流行の「家族葬」ということになるのでしょう。
密葬とは、消費者サイドが口にする場合、限りなく家族葬に近いのでは。
どうも近頃そのように思えて仕方ありません。
また、ご質問をお待ちしております。

井手一男

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 09:07 | トラックバック(3)

2007年10月31日

お念珠について  (広島のT様)

初歩的な質問で申し訳ありません。
ホール葬の場合、スタッフとして白手袋をしています。
(自宅葬では白手袋はしていません。)
「お念珠」はしなくてもよいものなのでしょうか?
案内をするときなどは手に持っていませんが、
合掌・礼拝の度にポケットからお念珠を出して、
またポケットにしまうという動作は自然なのでしょうか?
それとも、ずっと手に持っていたほうがよいのでしょうか?

ご質問ありがとうございます。
白手袋についても、ご質問?…残念ですが、少し意味が不明です。
自宅葬とホール葬で、白手袋の是非でしょうか?
それとも日常の葬儀の風景を伝えたかっただけなのか?
あるいはホール葬専門のスタッフなのかな?

そこで「お念珠」についてのみ、お答えさせていただきます。
「お念珠」というくらいですから、地域性からか特定の宗派が浮かびますね。
一般的に「数珠」と言われているものです。

数珠はいつ頃から存在するものなのか、諸説があって曖昧です。
ただ日本に入ってきたのは、仏教伝来と同時期だと思われます。
記録として残っているのは、法隆寺の資材帳(743年)や、
聖武天皇の頃、東大寺献物帳(756年)に、
数珠が国家の珍宝として献納されているそうです。
当時は、僧侶の間でも一部の者しか使用していなかったようです。

その後、鎌倉新仏教と共に徐々に民衆に浸透し、
江戸時代には売買が許可されたり、数珠の解説書がでたりしました。
宗派毎に特徴的に改良され、幕府の政策もあって仏教は栄え、
同時に数珠の需要が増したようです。
どこか現代に通ずるものがありますね。

そこでご質問の、
案内をするときなどは手に持っていませんが、
合掌・礼拝の度にポケットからお念珠を出して、
またポケットにしまうという動作は自然なのでしょうか?
それとも、ずっと手に持っていたほうがよいのでしょうか?

ですが、数珠は本来、数を数えるお道具です。
数を取る珠なので「数珠」と言うのです。
そして数珠は法具ですから丁寧に取り扱います。
例えば、投げたり、畳や床の上に直に置いたり、
数珠を着けたままトイレに行ったりはしないでください。
数珠を着けたままで、その他の不浄な行為も謹むべきです。
(様々なハードワークも入るでしょう)

私はセミナーで、昨今の若者がブレスレットのように数珠を扱うのはいかがなものか。
同時に葬祭のスタッフならば、安易な考えで数珠を扱うなと解いています。
法具に対して、失礼な態度だけは戒めるべきだと。
故人様やご遺族様への弔意の表明は素晴らしいことですが、
数珠をしていれば、という形だけに流されてはいけない…ということですね。

その都度ポケットにしまうか、ずーと手にしているかという、
動作が自然かどうかの質問なのでしょうが、
数珠は拝礼するときにだけ、慌てて使うものではありません。
気持ちがこもっていればいいでしょう。
しかし、この問題の本質は、そもそもの信仰心の問題だろうと思います。
もう一度良く考えてみてください。
ご質問ありがとうございました。

井手一男

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 09:30 | トラックバック(0)

2007年05月18日

東京の葬儀社では…

はじめまして。
質問させていただきます。
文芸社から出版されている「ご愁傷さまです」(情優次著)という本の中に
以下のようなことが書かれています。

シーンと静まりかえった式場内。
「パッ」突然照明が落とされた。
「何だ?どうしたんだ?」
「停電かしら?」
ざわめく式場内は祭壇に置かれた蝋燭の灯りだけの
薄暗い空間へと様変わりした。
そして、おもむろにナレーションが入る。
・・・中略・・・
このナレーションは野々村の十八番だった。
「なんじゃこれは!」
木野は呆れて開いた口が塞がらなかった。
あまりにも田舎っぽい演出に木野ははずかしくなった。
・・・中略・・・
「こんな田舎くさい演出のどこが良いというんですか?」
「田舎臭い?式前に参列者の心を掴む、最高の演出じゃないか。
気に入らないとでも言うのか?」
「気に入る、気に入らないじゃなくて、読経前にこれはないんじゃないんですか」
「それはセンスの違いだな。」
などなど。
読んでいただければわかると思いますが、
ようするにナレーションは古臭い、田舎臭い演出。
ナレーションをやってる人の自己満足で笑われているのもしらずに・・・
というようなことが書かれてあります。
これは東京の葬儀社の話でノンフィクションではあるようですが、
一概にそうは感じれないところもありまして、
東京ではこのような風潮があるのでしょうか?
是非見解を聞かせていただきたいと思います。

面白い質問をありがとうございます。
すぐに文芸社から出版されている「ご愁傷さまです」(情優志著)を調べてみました。
サブタイトルは、俺たちは三途の川のツアーコンダクターとなっていました。(笑)
残念ながら読む暇がなく、ネットで調べたものです。
随分と楽しそうな本ですが、内容はフィクションではないのですか。
東京でこのような風潮があるとは思えません。
東京はいろんな人の集まりですから、対応する葬儀社も色々。
個別に動いているアウトサイダーまでは良くわかりませんが、
ナレーションを入れているところは、割と少ないのではないでしょうか。
ただ一般に、賑々しいナレーションが嫌われていることは事実でしょう。
それに演出として、葬儀社がナレーションに偏りすぎるのも嫌われる要因でしょう。
作者は情優志(なさけゆうじ)と読むそうですが、
ノンフィクションと書いてあったならば、これに似た話が存在したのかも。
それにしても、臭い演出ですね。

この話で思い出したことがあります。
これは私の体験談ですが、中央仏教学院の通信制で築地の本願寺に通っていた頃、
全学年が大広間に集められ、正座して目を瞑らされました。
シーンと静まり返った堂内。
1分、2分と過ぎて、先生から声がかかります。
「目を開けなさい」
いつの間にか部屋の電気は消され、薄暗い室内に変わっていました。
すると、目の前の荘厳に、一本のローソクが…。
「皆さん、目の前のローソクの灯火に注目してください」
SE(Sound Effect)…音響効果が入ります。
ナレーション…これが上手かった、実に上手い。
毎回同じネタをやっている感じ。
「750年前、一人の青年が…中略…その人の名は親鸞… 」
終わって全員で校歌を歌いました。
年配の方は感激して泣いている方もいましたが、
私は演出について思うところがありました。

暗闇と(一本の)ローソクの灯り…同じようにこの演出も臭いですが、
信条を同じくする者たちへ向けられたものです。
だから許容範囲の演出でしょう。
BGMにもパターンがあって、大音響で入ってくるのや、静かに染み入るようにだったり。
まあ、それはいいとしても、現実の話、
葬儀は参加者のレベルが違いすぎます。
これは実感ですから、葬儀社の方なら分かってもらえるでしょう。
そういう不特定多数に向けられた演出として、相応しいのか?
この辺を勘違いしている業者がいらっしゃるのでは。

暇があったら本も読みますので、また教えてください。
ご質問ありがとうございました。
                                     井手一男

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 08:00 | トラックバック(8)

2007年03月19日

湯灌の風習について

はじめまして。新潟県のMです。
私たちの一部の地域では腰に荒縄を巻いて湯灌・納棺を行う風習があります。
荒縄はカスが服に着くので最近はビニール紐で代用しています。
地域の方々も昔からの 風習でなぜ縄を巻くのか意味は分からないようです。
そのいわれについて教えていただければありがたいです。
葬儀概論を開いたところ、鎌倉・室町時代の風習で「入棺する役の人は紙ひねりで
腋帯(わきおび)をする」とありますがそのいわれについては明記されていません。
湯灌に縄を巻く風習と何か関係があるのでしょうか?
宜しくお願いいたします。

納棺や湯灌にまつわる話はとても多く、その全部にきちんと理由付けするのは難しい。
しかし釈迦入滅の姿、頭北面西右脇臥に習って死者の頭の位置を北か西に向けるのは、
それほど昔からやっていたわけでもないだろうに世の中に浸透しているしね。
まあ分かる範囲でしか応えられませんが、
はじめに昔は座棺、今は寝棺、そして今は洋装、昔は和装をお忘れなく。
ついでに言うと、昔は土葬がかなり多かった。
死体は入棺前には洗うのが普通。
拭くだけの場合は、「拭き湯灌」と称し区別している所もあったようです。
湯灌の儀式は様々だが、一般に最も近い人達が、
縄帯・縄だすきで洗う風習が残っているようだ。
肌脱ぎになって洗う地域もあると聞く。
では何故こうした格好をするのか?
1.故意に普段と違った服装をする。
2.着衣の始末に都合が良く、死体に残っているかも知れぬ魂の移ることを惧れて。
以上の2点からだと思われる。
特に新潟県内では、死体の硬直前に膝や腕を曲げる事を「手直し」「床直し」と呼んだ。

また死体を動かす時は黙って動かしてはいけないようだ。
「おい」「さあ」とか「えなーぞ(担うぞ)」とか、何らかの声掛けをする。
例えば、死者を湯灌の盥(たらい)の中へ入れて、喪主が体を起こすときには、
「起こすばなー」と声を掛けたりする。
これは、「枕おこし」とか「仏おこし」と言うようだ。

湯灌に使う水の汲み方や、使った湯の捨て方にも色々と決まりがあるようだ。
例えば、湯灌に使う水は必ず山の水で、三人で汲みにいき、
ひしゃくを水の流れる方向に向けて汲み、庭で沸かし、
盥(たらい)に井戸の水を汲んでから、その後湯を注ぐ。
こういう汲み方や混ぜ方は、普段は決してしない。
また、湯灌の水を汲みに行った者を、必ず呼びに行く風習が残っていたり、
その場合、普段は井戸や川から水を汲んでくるのを、迎えてはいけないとされている。

今回の質問は湯灌の際、湯灌をする側が腰に縄を巻く風習だが、
死者の体を荒縄で縛ることがある。
座棺の場合だが、柩の中で骸(むくろ)が動かないようにと、
縄を首から膝へ掛けて固定している。
極楽縄と言うようだ。
また桟敷に胡坐をかかせて、死者の前には一度も立たずに縛る地域も在るらしい。
遺族が死者の正面に立ってはまずいらしいのだ。(忌がかぶるのだろう)
不浄縄と言い、この始末を介錯、よって介錯の縄とも言う。
他に、往生縄、浄土縄とも言ったようだ。
かつて死体は死者の抜け殻であったと考えられ、死者の本体は霊魂にあり、
それゆえ霊魂だけを祀れば事足りるということだろうか。
意外と死体を粗末に扱っている感じ。

いずれにしても湯灌は神聖な儀式で、
それだけに各地域でそれぞれにやり方が異なっている。
ただ、様々な所で「縄」は使われているね。

井手一男

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 08:56 | トラックバック(18)

2006年11月13日

浄土真宗の司会について

はじめまして。
葬儀の司会を始めて間もないひよっこです。
疑問だらけなので、お答えいただけると大変助かります。

1.浄土真宗ぶっこうじ派について
  ぶっこうじ派の漢字は仏光寺と沸光寺と、どちらが正しいのですか? 
  それとも違う2派なのでしょうか?
  焼香回数は何回?
  資料を見ても浄土真宗は、大谷派と本願寺派しか載っていません。
  ぶっこうじ派は少数、もしくは特殊なのですか?
  ぶっこうじ派の資料がないため、焼香回数以外にも特色があるようなら
  知りたいのですが。

2.浄土真宗は「旅立つ」という言葉を使わないと、研修時に習いました。
  でも、大谷派の原稿で「今お浄土へと旅立たれます」の文があり、?
  また、大谷派は浄土真宗でなく真宗だとも教わりました。
  そのへんの違いを教えてくださいませんか?

3.先輩司会者が「導師、ご中座いたされます」
  「導師、ご拝読いたされます」と言います。
  「いたす」は謙譲語で相手に使う言葉でないはず。
   念のためと思い、広辞苑で調べたら謙譲語はもちろん。
   これに相当する使い方なのかと思う箇所を以下に転載します。
   ⑤「する」を丁寧にまた荘重にいう語。
   改まった場面で用いる。
   「清見原の天皇・・・ほどなく天下泰平をー・さる」

ご見解の程、よろしくお願い致します。
尚、このサイトを見つけ頼もしく思っています。
これからも都度、質問させていただくかもしれません。

回答
ご質問、ありがとうございます。
では質問の順番に答えさせていただきます。

「ぶっこうじ派の漢字は仏光寺と沸光寺とどちらが正しいのですか? 
それとも違う2派なのでしょうか?」

正式表記は「真宗佛光寺派」です。
佛光寺の寺号(名前)の由来ですけど、
寺伝によると興正寺(後の佛光寺)の阿弥陀如来の木像が盗難に遭い困っていたところ、
それが後醍醐天皇の夢に出てきて…東南の方角から一筋の光が差し込む夢…
探してみると、その通りに仏像が発見されたということによります。

「焼香回数は何回?」

焼香回数は原則2回ということでよろしいでしょう。
というのも、例えば浄土真宗本願寺派なら1回焼香と答えるレベルでの話です。
本願寺の僧侶は、お勤めの中で衣に塗香(ずこう)したり(密教のように)、
あるいは導師の作法の中では2回焼香のシーンも存在しますから。

資料を見ても浄土真宗は、大谷派と本願寺派しか載っていません。
ぶっこうじ派は少数、もしくは特殊なのですか?ぶっこうじ派の資料がないため、
焼香回数以外にも特色があるようなら知りたいのですが。

少し回答がズレますけど、ご理解ください。
真宗は、十派という分類が一般的でしょう。(もっと多い分類方法も存在します)
真宗諸派の成立過程は省きますが、宗祖の子孫によってうち立てられた教団と、
宗祖の門弟によって形成された教団に大別することが出来ると思います。
真宗十派の内訳は、本願寺派(西本願寺)・大谷派(東本願寺)、
高田派(専修寺)・佛光寺派(佛光寺)・興正派(興正寺)・木辺派(錦織寺)、
出雲路派(毫摂寺)・誠照寺派(誠照寺)・三門徒派(専照寺)・山元派(證誠寺)
で、真宗教団連合を組織しています。

「浄土真宗は、旅立つ…という言葉を使わないと、研修時に習いました。」

旅立つという言葉は、宗教上では誤解を生むので使わないようにしています。
(日常会話では問題ないですよ)
浄土真宗は旅立たない・旅をしないから使ってはいけない禁句なんだ、
と単純に言う人が多いですが、本当の意味をご存知の方は少ないようです。
少し説明をしましょう。
浄土へ往生する観念が、旅を否定しているから使えないというよりも、
往相(おうそう)・還相(げんそう)回向の考え方から否定させてもらっています。
往相還相回向については難しいので簡単に言いますと(語弊があるかもしれません)、
無くなった瞬間に浄土へワープすることが出来て、
(横超…横様に飛越える、と書いてあるけどね)
次の瞬間には、いつでも衆生を導くためにこの世(仮の世)に戻ってくるのです。
ついでに言うと、「忌中」が貼れないから、「還浄」(げんじょう)と書かれた紙を貼る…
このように僧侶が指導した時期もありましたが、
本願寺派ではこれを誤りと判断しました(2001年)。
何故なら「還浄」は「忌中」に比べたら遥かに正しいけれど、
上記の理由から往相回向のみを意味するので、
テストに例えれば半分の50点ということでしょうかねえ。
それから「回向」の意味が真宗では全く違います。
通常、真宗系以外の他の宗派は、
功徳を故人に回して差し向けるから「回向」と言いますが、
真宗の「回向」は、阿弥陀如来から等しくいただくものです。
これについては法要後の飲食で、
「献杯」という言葉が問題視されるのが該当します。

「大谷派の原稿で「今お浄土へと旅立たれます」の文があり、?」

これは誤りではないかと思いますが、
宗教上の文言に捉われずに司会言葉を選択する、という観点からなら理解できます。
しかし、本願寺派では使ってないということなら、ただの間違いでしょう。

「大谷派は浄土真宗でなく真宗だとも教わりました。
そのへんの違いを教えてくださいませんか?」

「真宗」と「浄土真宗」の表記の違いについてはあまり知られてないので紹介します。
(ちょっと長くなりますがお付き合いを)
七高僧をご存知でしょうか?
インドから中国・日本と続く他力念仏の系譜を、親鸞聖人が選択したものですが、
竜樹・天親…ここまでインド、曇鸞・道綽・善導…ここまで中国、
源信(恵心僧都)・源空(法然)…これは日本代表、の七人のことで、
親鸞聖人は最後の法然の教えを真実の宗教という意味で「真宗」と呼んでいました。
ところが法然没後に、様々な解釈の違いから批判を浴び浄土宗離脱のような形になり、
浄土真宗と名乗れば良いのですが、それでは浄土宗批判と受け取られかねません。
そこで「真宗」とだけ名乗ったようです。
ただ当時は、浄土宗や時宗でも「浄土真宗」と称した例もあるので、
今で言う浄土真宗とはかなり趣が違うようですね。
江戸時代に入ると、徳川家菩提寺の一つである増上寺等…を中心とする、
浄土宗からの圧力で浄土真宗と名乗る事を幕府からは許可されず、一向宗と称しました。
浄土真宗の表記は明治以降も認められず、戦後になって漸く認められます。
派名を正式に「浄土真宗本願寺派」と称するのは、昭和21年以降のことです。
(意外と歴史は浅いのです)
しかし元を質せば、明治維新の宗教再編時に、宗教団体として公的登録を行う際、
浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請していまして、
他は「真宗」と申請していたことが現在の名称に大きく影響しています。

先輩司会者が「導師、ご中座いたされます」
  「導師、ご拝読いたされます」と言います。
  「いたす」は謙譲語で相手に使う言葉でないはず。
   念のためと思い、広辞苑で調べたら謙譲語はもちろん。
   これに相当する使い方なのかと思う箇所を以下に転載します。
   「する」を丁寧にまた荘重にいう語。改まった場面で用いる。
   「清見原の天皇・・・ほどなく天下泰平をー・さる」

困りましたね、敬語については、あまり深く考えたくありません。(ごめん)
というのも、学問としての敬語は学説がたくさん存在し、
国語学者によって見解が分かれることも多く突き詰めたくないのです。
ご質問にある「拝読」という言葉も「読む」の謙譲語ですが、
相対的な使い方なら「ご拝読」はちょっと違和感を感じるけど、
絶対敬語のような使い方なら「ご拝読」も存在するかもしれません。
つまり、何を、どの立場の、誰が、読むのかで違ってくるはず。
同様に「いたす」もご指摘の通り「する」を丁寧にまた荘重にいう語…だと思われますが、
あまりに不自然と感じるなら他の言葉に変更されたらいかがですか。
私個人としては、時代がかった言い回しに聞こえますので、
分かりやすい現代風の言葉に変えると思います。

ではこの辺で…
参考にしていただけたら幸いです。
ありがとうございました。
井手一男

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 00:18 | トラックバック(2)

2006年04月29日

出棺後の風習について

こんにちわ、いつも楽しくMCエッセイを拝見させていただいております。
岩手県K社のTです。
さて早速ですが・・・私の住んでいる地域は火葬が終わってからの葬儀という風習です。
その際時々見かけるのが、出棺した後に縁側の扉を全部開けて
座敷の奥の方から、畳をほうきで掃き始めます。
これにはどんな意味があるのでしょうか?

「ただの掃除です」
と答えたいところですが、実は意外と奥が深いのです。
出棺後に残った家人が箒で部屋を掃く風習は、鎌倉時代以降に散見します。
柩が安置されていた部屋に塩を撒いて、竹の箒で掃いた後、その竹箒は川に捨てる。
要は部屋を清めているのですね。
そして使った竹箒も穢れるので処分する。

さてTさんの地域ではどうでしよう。
(ナント逆質問だあ!)
1.塩は撒きますか?
2.箒は竹箒ですか?
3.その後、箒は処分しますか?
多分・・・かなり簡略化されていると思います。
ならば、葬儀社側で「使い捨ての竹箒と塩」のセット商品なんか喜ばれるかも。
(質問には答えなくて結構ですよ・・・冗談です)

さて、竹箒から脱線します。
竹は木とは異なる優れた特性を持っています。
茎が中空、割裂性、弾力性に富み、さらには伸縮しにくいことが、
日本の文化の中で巧みに利用されてきました。
また成長力があり、冬でも枯れない竹は、四季を通して全国各地に豊富に存在しました。
そして竹は葬送儀礼の様々なシーンと切り離すことができません。
昔は、土葬することも出来ない人達が大勢いて、
そんな人達の埋葬場所が主に竹林だったようです。
竹林の中に野捨てのような状態なのですが、
では何故竹林かというと利点がいくつかありました。
まず、竹は藪が濃くて視界から(死体が)隠しやすい。
次に、竹の葉にはいわゆる解毒作用があります。
(防腐・殺菌・防黴・消臭…おむすびを包みますよね)、
つまり死体からの疫病を防ぐ効果が期待できる。
本来、拾骨の際に竹の箸を使ったのも、
こうした葬送儀礼と竹との密接な関係から納得がいきます。
日本人は様々な特性を持った竹というものに、霊的な力を見ていたのでしょう。
竹取物語でかぐや姫が竹から誕生するのもこうした背景があるからだと考えられます。
神葬祭の斎竹(忌み竹)にしてもしかり。

では、全国の出棺の風習をいくつか。
出棺後に、故人が生前使っていた茶碗を割る「茶碗割り」
出棺後に、部屋を竹箒で清める際、ざるを転がす「ざる転がし」
出棺時の「撒き銭」
出棺時、遺族の男性は「麻の袴姿」
出棺時、玄関先で藁を燃やす。
出棺時、出立のお膳を回す「食い別れ」
出棺時、赤や黄色の「涙手ぬぐい」を配る。
出棺時、卍マークが書かれたものを頭に付ける。
出棺時の「柩回し」
この他にも全国に面白い風習はたくさん残っているでしょうね。
私見ですが、葬送儀礼の風習でよく使われるのは、
竹、藁(わら)、陶器、麻、でしょうか。

Tさんの地域とは逆なのですが、部屋の掃き掃除を、縁側に向ってではなく、
部屋の内側に向かって掃く地域もあります。
その理由が明確ではないのですが、
葬儀は非日常だから普段と逆の事をするパターンかもしれません。
あるいは、竹箒は目が粗いので、邪気はその隙間から戸外に退散させる目的かも。
というのも、上記の「ざる転がし」には同様の意味があって、
ざるの目の粗さから邪気に退散してもらうとされているのです。
「天網恢恢疎にして漏らさず」じゃなくて、
「天網恢恢疎にして邪気だけ漏らす」だね。

ご質問ありがとうございました。
井手一男

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 00:00 | トラックバック(15)

2006年03月26日

偲ぶ会での服装について

はじめまして
昨年末に知人がお亡くなりになり、
この度、その方の長年のご友人達で偲ぶ会をされます。
私も出席させていただきますが、服装は喪服がよろしいのでしょうか?
私は、経験豊富な年齢に達してはいますが、
このような会は初めてですのでどうぞ、お教えください
〈 山口県  k・k 〉

ご質問ありがとうございます。
おそらくこの偲ぶ会は無宗教で執り行われるということなのでしょう。
そうでなければ、服装についての疑問も生まれないでしょうから。
そして主催者が故人のご友人達だということですね。

このようなケースにおける偲ぶ会の服装について明確な規定はありませんが、
それだけに参列する側は迷います。
喪服で参列するべきか、それでは少し大袈裟にならないか…など。
ですから、服装についての案内があるのが一般的です。
例えば、故人とテニス仲間の集まりであればテニスルックでとか、
野球チームやサッカーチームの集まりであればユニフォームでとか。
このように具体的な指定があれば迷いませんが、
一番困るのが、平服でお越しくださいというパターン。
平服とは普段着のことですが、
パーティの招待状での平服は「略礼服」を意味します。
言葉通りに受け取ってGパンにTシャツでは居心地が悪いでしょう。
そこで偲ぶ会に於ける平服とは、
華美にならずに節度を保った服装ということでしょうか。
一番良いのは、主催者に直接お聞きすることです。
しかし服装についてお訪ねしても明確な回答が得られない時は、
集まる方たちの年齢や会場について教えていただき、
偲ぶ会の雰囲気を具体的に掴むことですね。
そして自分と故人との関係を考慮しつつご判断されたらいかがでしょうか。

さて、せっかくですから質問以外の雑談も少し。
最近は無宗教という言葉がよく使われるようになりましたが、
無宗教とは、宗教を否定する「否宗教」「非宗教」のことではありません。
(無宗教というネーミングがよくなかったかも)
無宗教で執り行うとは、セレモニーの中に、
特定の宗教儀礼を取り込まないということです。
別の言い方をすれば、宗教上の狙いを定めないともいえるでしょう。

ということは、宗教と名の付くものは「狙い」を定めているということ。
では「狙い」とは何でしょう。
一般にどの宗教も、表現は様々でしょうが「願行具足」(がんぎょうぐそく)です。
「願」とは狙いを定めること。
「行」とはそれに向かって進むこと。
「具足」は共に備わる(足りる)ということですね。
では分かりやすく2つ例を挙げましょう。
浄土系(浄土真宗や浄土宗など)では、
「願」つまり狙いは阿弥陀如来であり、
「行」はお念仏に代表されるような信心の行い。
真言宗系では、
「願」つまり狙いは大日如来であり、
「行」は儀軌(ぎき)と呼ばれる方法に則った信心。

さらに叱られるのを覚悟で、もっと分かりやすい例え話を。
拳銃を手にして、どの的を撃とうか思案しています。
狙うべき的は色々とあって、阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、釈迦如来…。
どれに狙いを定めるかという「願」が宗派の選択、そして撃つのが「行」。
しかし、洗礼を受けても礼拝せずとか、檀家だけれども本尊知らず、
または仏門に入って信心せずの人が多いですね。
ひどいお宅では、所属するお寺の名称はさすがに知ってはいますが、
そのお寺の宗旨宗派を間違っていたりします。

何らかのセレモニーを○○宗で執り行うということは、
そこに宗教儀礼を取り込むということです。
それは「願」…狙いがあり、
「行」…信心の行いがある…ということになります。
一般にその辺の理解が欠如しているので、例えばお葬式の時に、
僧侶の読経がつまらなかったり、退屈に感じたり、
あるいは的外れに導師の姿勢が良かったとか、声が朗々として素敵だったとか
(そのこと自体は良い事ですが)…妙な部分にしか関心が行かないようです。

その関心の部分を故人へと一点に集約できるのが、
無宗教の良さでもありますが、一方で主催者サイドの力量…
セレモニーのプロデュース・演出能力…を問われることにもなります。
故人を偲んで集まって、思い出話に花を咲かせて食事をして…。
お酒が入るとつい話しが脱線し、故人以外の話で盛り上がる人も出てきます。
それはそれでいいという人もいるでしょうが、終わったあとの空疎感は否めない。
無宗教の難しさがここに存在しますが、要は宗教儀礼と同じで狙いを定めること。
それがプロデュースであり、演出なんですが…。

雑談ばかりが余り長くなってもいけませんね。
KK様の偲ぶ会が有意義なものである事をお祈りします。
ご質問ありがとうございました。
また、回答が遅くなりました事をお詫び申し上げます。
井手一男

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 00:12 | トラックバック(89)

2006年03月10日

享年・行年について

福岡県のY葬儀社に勤務する熱血担当者です。 
加藤先生、井手先生、講習の際は大変お世話になりました。
さて、先日担当者研修会があり、その講義の中で
【享年】と【行年】の違いに触れてあったそうです。
<享年>・・・何年生きたか。従って「歳」はつけない
<行年>・・・何歳まで生きたか。従って「歳」をつける
と、資料には書いてあります・・・(中略)・・・ということで、
もう少し詳しく教えていただけないでしょうか、宜しくお願いいたします。

困りましたね、実際の研修資料を拝見したわけではありませんが、
ご質問の内容を素直にそのまま受け取れば、
この講師はかなり個性的・独断的解釈をされているかもしれません。
ただ、実際の講義の中ではもっとフォローや説明をされているのでは…。

<享年>や<行年>については、教える側の立場の違いなのか見解の相違なのか、
一般に様々な説明が存在し、意見(解釈)が分かれる部分も多いようです。
まずはその解釈において代表例を列挙し、その中から結論を導くことに致しましょう。

①享年とは「天から享(う)けた年数」という意味で、この世に存在した年数のこと。
②享年と行年は同じ意味で、「死んだものがこの世に生きていた年齢」という意味。
③享年と行年は同義語で、「この世に生きていた間の年齢」という意味。
④行年とは「修行した年数」つまりこの世、娑婆世界に修行に来た年数のこと。
⑤行年とは、生まれてから経た年数で、特に仏教語というわけではない。
⑥行年と享年は同義であり、どちらもこの世に生きた年数とか死亡時の年齢の意。
ただ語感よりすれば、行年は浄土へ赴くとか来世へ旅立つとかの意をうける。享年は頂
戴した生命を一生懸命燃焼させていただいたとの意をうける。(どちらも趣のある語)
⑦享年と行年を同一視し、天から享けた寿命の年数として亡くなった時の年齢を指す。

とりあえずこれで検証していきましょうか。(フー)
ここでのポイントは「年数」か「年齢」か、ということですね。

①享年とは「天から享(う)けた年数」という意味で、この世に存在した年数のこと。
①ならば、<享年○○歳>という表現が成り立ちます。

②享年と行年は同じ意味で、「死んだものがこの世に生きていた年齢」という意味。
②ならば、享年が既に年齢の事を指していますので、<享年○○>という表現が正しい。

③享年と行年は同義語で、「この世に生きていた間の年齢」という意味。
③も同様ですが、ただし行年についても同じことが言えます。
つまり<行年○○><享年○○>となって、<行年○○歳>とは言いません。

④行年とは「修行した年数」つまりこの世、娑婆世界に修行に来た年数のこと。
④ならば、<行年○○歳>という表現が成り立ちます。

⑤行年とは、生まれてから経た年数で、特に仏教語というわけではない。
⑤ならば、<行年○○歳>という表現が成り立ちます。

⑥行年と享年は同義であり、どちらもこの世に生きた年数とか死亡時の年齢の意。
ただ語感より、行年は浄土へ赴くとか来世へ旅立つとかの意。
享年は頂戴した生命を一生懸命燃焼させていただいたとの意。(どちらも趣のある語)
⑥ならば、<享年○○・行年○○>または<享年○○歳・行年○○歳>
どちらの表現も成り立ちます。

⑦享年と行年を同一視し、天から享けた寿命の年数として亡くなった時の年齢を指す。
⑦ならば、年齢のことですから、享年も行年もいずれも○○歳とはなりません。
<享年○○・行年○○>の表現が正しい。

このように様々な解釈が存在します。(大変だわ)
以上代表的7つの解釈からのデータでは、
享年に○○歳と付くのは2。
享年に○○とだけなのは3。
行年に○○歳と付くのは3。
行年に○○とだけなのは5。
あまり代わり映えしない結果ですが、いかがでしょうか。
ただ<享年>も<行年>もどうやら同じ長さを示しているのは確実のようです。
更にはいずれも、「○○歳」または「○○」と歳を付けたり付けなかったり。
ですから、資料に書かれている事は、
「かなり個性的・独断的解釈をされているかもしれません」と申し上げたのです。

ここで【1】問題を出しましょう。
「享年74歳」と「享年七十四歳」と二択の問題で、どちらの表記が正解?
とくれば、まず皆さんは「享年七十四歳」を選びますよね。
ピンポーン…正解です。

では次の【2】問題です。
今の答え「享年七十四歳」の表記についてですが、
一般に正しいアナウンスに表記を直し、更に全ての読み仮名を書きなさい。
答えは…
表記は「享年七十四」と修正し、読み仮名は「きょうねん・しちじゅうし」が正解です。
しかし実際には、読み仮名を「きょうねん・ななじゅうよん」と読む人が多いのでは。

さて、意味もなく寄り道をした訳ではありません。
言葉というのは、生き物で時代と共にその解釈も移り変わります。
一つ例を挙げれば、「貴様」なんて言葉は、今では蔑みの意味しか持ち得ないでしょう。
(方言では違う解釈もあります)
しかし字面から見ればとんでもない話なんですよ。
字面から受ける印象と実際の意味合いがこれだけかけ離れるのも珍しいですが。

そろそろご質問にお答えしなくては。
私の考えですが、<享年><行年>とは一般に同義語であり、
「天や大自然から享(う)けた年数」という意味を表しこの世に存在した年数のことです。
しかし、権威あるアナウンスの定番では、少しばかり解釈が違います。
<享年><行年>とは、ずばり年齢を指していると解釈しているようです。
ですから【2】問題の回答が上記のようになります。(読み仮名も含めて)

私の場合、葬祭の司会者として仏教的解釈を加えているのかもしれません。
死んでなくても、今私は享年あるいは行年46歳という考え方が根底にあります。
そして語感の持つイメージとして、故人の年齢を紹介するのに、
「享年(行年)七十四」と紹介するのと「享年(行年)七十四歳」と紹介するのとでは、
悲しみのご遺族様に対しての、当たりの柔らかさが違うと思っています。
NHKのニュースを読むアナウンサーとは少し感性が違って当然だと思うわけです。
ニュートラルな立場で、事実を正確に伝えるのとは違うと思います。
とはいえ、実際の現場では私は使い分けています。
大きな社葬になると、享年○○と言うこともありますよ。
会社の行事ですからね、選択する場合の優先順位が変わるのです。
そして享年と行年の使い分けは、特に指定がなければ位牌に合わせるようにしています。

折角ですから、またまた少し脱線しましょう。
享年や行年は、数え年と一致するケースが多いでしょう。
ですから、数え年=享年=行年という誤った認識が広まっています。

数え年の計算方法は、生まれた歳を1歳として、年が変わるたびに1歳ずつ加齢します。
現在の役所関係では満年齢表記が基準ですが、では仏教では何故数え年なのか?
(昭和25年12月22日までは数え年が正式表記でした)
それは母親の胎内に命が宿った時から計算するからです。
呱々の声を上げた時が誕生ではなく、お腹の中に存在する時から大切な命として
カウントしているわけですね。
お腹の中に存在するだけでは、人間の命としてカウントしてもらえない
現在のお役所仕事とは明確に一線を画しているのです。
素敵な話でしょ、少しは仏教にもいい所があるでしょ。
喜寿(七十七歳)や米寿(八十八歳)の長寿のお祝いも数え年ですよね。
(死ぬ前に早いとこやっちまおうということではありませんぞ…ごめん)

理論的に数え年と、享年・行年を比較しますと、
数え年は、生まれた時に1歳、以後正月ごとに1歳加齢。
享年・行年は、誕生日の十月十日前から、死を迎えるまでの年を数えたもの。
ですから、必ずしも数え年と享年・行年が一致するわけでもないのです。
そして地域や各寺院の考え方により、享年・行年の考え方も違ってきます。
地域の慣習が一番優先されているのが現実だろうと思いますよ。
私の属する浄土真宗本願寺派でも、法名に享年や行年を用いていますが、
満年齢で記しているものが結構あります。
(実情に照らしての判断だろうと思いますが)

参考までに、仏教辞典によれば享年・行年とは、天・大自然から享(う)けた年数
という意味で、この世に存在した年数のこととあるようです。
「この世に存在した」という意味の解釈を誤らないことですね。

いずれにしても、享年や行年というのは、
大宇宙・大自然、そんな命の源から誕生した尊い生命が、またそこへ還っていく…
その意味が、享年や行年という言葉に込められているのであって、
仏教的な素晴らしい考え方を反映しているものでしょう。
寿算とも言いますからね。

私の考え方と私の実際の司会での使い分け、またその他の資料は提供しました。
そこでご質問の中にある
「さて、先日担当者研修会があり、その講義の中で
【享年】と【行年】の違いに触れてあったそうです。
<享年>・・・何年生きたか。従って「歳」はつけない
<行年>・・・何歳まで生きたか。従って「歳」をつける
と、資料には書いてあります」
ですが、んー講師の方には申し分けないですけど、私には納得がいきませんね。
そんな単純な考え方ではないと思っています。

冷たく突き放すわけではありませんが、特に正解というものがあるとも思えませんし、
私の考えを押し付けるつもりもありません。
最後は、地域の実情に照らし合わせて、
一番しっくり来る表現を選択されたらいかがですか。

私の電話番号知ってるくせに、わざわざご質問ありがとうございました。
お陰で答えるのに2時間も掛かりました。(笑)
ホームページは、割に合いません。(笑)
次は心優しい人からの、簡単なご質問を募集します。(笑)  
井手一男

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 00:06 | トラックバック(8)

2006年03月05日

葬儀司会者の役割とナレーションの必要性について

さいたま市のSです。
先日は有難うございました。
今回は、ナレーションの必要性について、お伺いいたします。
葬儀式のみならず、結婚式・卒業式などありますが、○○式と、
披露宴、謝恩会などとは違うような気がいたします。
葬儀式は進行役に徹するのが本来の司会の姿だとおもうのですが。
今のお葬式は、葬儀・告別式が同時進行と言う事が影響しているのでしょうか?
結婚式・披露宴の様に、葬儀(遺族・親族の悲しみ・お別れの場)と告別式
(参列頂いた方々とのお別れ)を区別(告別式には宗教的な事はしない等)し、
告別式にこそ、故人を偲べるひと時、
それを想いおこせるナレーションが必要ではないのでしょうか。

またまた難しいご質問ですね。
お答えするのにポイントがいくつもあります。
ましてや司会一般も含めての複合的なご質問ですので
メールでのやり取りだけでは不充分だと思いますが、出来る限り…。

ではまず
葬儀での《ナレーションの必要性について》ですが

ナレーションの目的について考えてみましょう。
葬儀でのナレーションの目的とは、
①故人を偲ぶ環境・雰囲気を作る
②主宰者(主に僧侶)の宗教儀礼を前に(開式前に)厳粛に臨んで頂く
上記の2点が主な目的と思われます。
通夜や葬儀の開式前というのは、ともすれば参列者同士で会話が弾み、
いつの間にか賑やかな空間が出来上がることもしばしば。
決して悪気はなく、故人中心の話題からつい脱線し、
懐かしさが先に立って、昔話に花が咲く…こともあるようです。
そんな時、施行業者として①②の環境作りの演出は必然ですが、
私は必ずしもナレーションだけが有効な手立てとは思っていません。
下手なナレーションならない方がマシですし、
妙に賑々(にぎにぎ)しいナレーションや、説教臭すぎるナレーションなど、
(個人差にもよるでしょうが)逆効果になる恐れがあるでしょうね。
また、ナレーション以外の演出手段を選択することも可能です。
例えばライティングを駆使した日常と非日常の落差やBGMの効果的な使い方。
手前味噌ですが、FUNET追悼文や、ライフ・レビュー・パネルでの演出。
さらにはFUNETの追悼DVDなど。(もちろん他の映像も)
要は、目的を達することが重要ですので、(意外に思われるかもしれませんが)
私はナレーションが必ずしも必要とは思っていないのです。
と同時にこれは最後でも述べますが、私はナレーションを特別扱いしてません。

ちょっと脇道に逸れますけど、葬儀ナレーションのための取材にしても、
とことん真実を追究することに意味は無いと思っています。
表現とは全て(司会に限らず全メディア共通ではないかな)、
見せたいモノが最初からあるし、逆に言えばそれがない表現は成り立ちません。
葬儀のナレーションは、人生賛歌という大枠からは外れないでしょう。

次に
《葬儀式は進行役に徹するのが本来の司会の姿だと思う》についてですが、

「葬儀式」という言い方には色々と問題を含む場合がございます。
「葬儀」という宗教儀礼であって
「葬儀式」ではないと捉える宗教家が多く存在します。
(大谷派では、差上に葬儀式第一と第二とが存在し、これは例外的)
詳細は省いたまま話を進めます。(ご了承ください)
葬儀式は進行役に徹するのが本来の司会の姿・・・とありますが、
そもそも宗教儀礼の葬儀に司会は必要ありません。(前提としてないのです)
そこで「進行役」という事が重要になってきます。
私は進行役なら存在しても構わないと思いますが、(否定する僧侶もいます)
進行役が務まるだけの知識と技術を有している者がどれくらい存在するのか?
理想を言えば、全ての宗派のお経・偈文と差上が分かっていないと、
例えば2分後にはどこをやっているのかとか、現在の地点が全体の進行の中で、
どの位置にあって・・・だからどうなのか・・・etc。
始めから終わりまできっちりと把握していないと進行すら難しいのが現実です。
各宗派の僧侶並の知識が求められます。(主宰者との信頼関係・協力体制の確立)
つまり、進行役に徹することがどれだけ大変なことかを知れば、
葬儀におけるナレーションの有無や、司会者の役割が進行に徹するべきだ…
云々の考え方は、意見として様々あっていいのですが、
あまり深い意味を持ってくるとは思えません。
大切なことは、司会者としてあるいは進行役として、
自分が提供できる司会進行の最大限の努力を、
心を込めてやり遂げるという一点に尽きるような気がします。
もちろん平素の努力は前提ですよ。(かなりの努力です)
因みに弊社の司会者は、原則全宗派の僧侶用のお経本等を購入していまして、
司会の当日は、該当宗派のお経本持参で現場に向かいます。
(セミナーでも各宗派の差上については詳しく展開しています)
しかし、葬儀社さんで同様の資料をお持ちの方は残念ながら皆無のようです。
(セミナー参加者は除く)
「いやうちの会社にはありますよ」と言われて確認したこともあるのですが、
残念ながら全て街本でした。(本山出版部の僧侶用の物ではないのです)
これはお勧めできません。

そして
《葬儀・告別式の同時進行》についてですが、

社葬などの大型葬儀では同時進行しないこともありますが、
一般には、葬儀と告別式が同時進行しているのが現状です。
しかし主宰者(主に僧侶)側は、告別式の読経という意識は希薄でしょう。
また一連の流れの中で、厳密にどの時点からを告別式とするかというのも、
現実的には曖昧な部分があり、更には「お葬式」と一般に認識されているのは、
「葬儀」と「告別式」を併せたものです。
「お葬式」という言い方は、習俗的な捉え方と考えてください。
私は《告別式の時にこそナレーションで故人を偲ぶ・・・》という意見は、
間違っているとは思いません。
現在、東海・北陸・九州などの地域では、お花入れの前後にナレーションで
故人を偲ぶひと時を演出している葬儀社が結構あります。
これについて私は反対意見があるのですが、長くなるので止めときます。

参考になるかどうか分かりませんが、
弊社の司会セミナーでは、進行アナウンスの演出方法を教えています。
まったく同じアナウンス言葉でも、表現の仕方次第で雰囲気は全然違います。
言葉で伝えられないのがもどかしいですが、
「進行」も「司会」も「ナレーション」も「弔電」も、
どれも同じ司会理論で進められます。(ナレーションを特別視していません)
機会がございましたら、是非ご参加ください。

Sさんは葬儀の司会について深く考察され、
色々と疑問やご意見がおありのようですね。
私も昔は随分と悩みました。(今より情報が少ない時代です)
当時は全宗派のお経本を買い漁るだけでも大変だったのです。
そこで結局僧侶側から葬儀を見たい、僧侶側から葬儀社や司会者を見たい、
そう思って僧侶になるための学校へ通ったわけです。
反対側から物事を見てみるというのも結構面白いですよ。(お勧めします)
私の場合ですが、疑問や悩みが解消した部分も多かったです。

中途半端な回答になったかもしれませんが、ご容赦ください。
ご質問、ありがとうございました。

次は優しいご質問をお待ちしております。
井手一男

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 00:12 | トラックバック(65)

2006年02月25日

大乗仏教・浄土真宗・般若心経の関係について

さいたま市のSです。
先日、お葬式(浄土真宗)のとき、友人が写経した般若心経を
お供えしたところ、お寺様に下げてくださいと言われました。
大乗仏教・浄土真宗・般若心経の関係をお教え下さい。
また、葬儀屋さんの白い手袋にはどんな意味があるのですか
お教えください。

んー困ったなあ。ポイントがいくつかあるし、どこから行きましょうか。
本来はどんな質問でも受け付けるわけではなく(知らないことが多いからね)、
司会や接客を中心とする実務中心に考えています。
宗教家に聞いた方が正確だろうし、私の<なんちゃって知識>でかえって
迷惑をお掛けしても申し訳ないですから。
でも今回は初めてのご質問ですし、特別に。

まず大乗仏教とは何か。
大乗仏教以前、仏教は「経」「律」「論」…合わせて三蔵…から成っていました。
経…釈迦の教えを集めたもの
律…仏教教団の生活の規則
論…経典学
しかし、やがて哲学的な議論に熱中し、次第に仏教が学問化していく中、
自らのみの救済を目的とする傾向が見られるようになりました。
そうするとその反動として、
釈迦が説いた本来の精神に立ち返ろうとする動きが起こります。
自らを、そして多くの人々を、迷いの此岸から悟りの彼岸へと渡す
大きな乗り物にたとえ、利他の精神を掲げて「大乗」と呼びました。
これが大乗仏教。

この歴史的な流れのもう一方は、上座部仏教とか伝統仏教とか部派仏教と
呼ばれていますが、大乗仏教側から見れば小乗仏教という言い方をします。
(小さい乗り物に例えていますね)
大乗仏教は、釈迦の本来の精神に立ち返ってはいるけれど、新しい仏教。
また万人の救済を目指した仏教。
中央アジアから中国へ広まった仏教。・・・だから北伝仏教・北方仏教とも言い、
小乗仏教は、南伝仏教・南方仏教とも言いますね。

次に般若心経とは、正式名称がいくつかあるのですが、
一般には「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」ではないでしょうか。
(ぶっせつ・まか・はんにゃ・はらみた・しんぎょう)と読みます。
その成立起源も訳者も諸説あり、ここでは触れません。

仏説とは「仏が説いた」
摩訶とは「立派な、偉大な、大きな」
般若とは「仏の智恵」
波羅蜜多とは「梵語のパーラミータの音写で、彼岸や仏の国」
心経とは「大事な経典、中心的な経典」
ですから般若心経を直訳すれば、
<仏が説いた、偉大な、仏の智恵で、彼岸へ到達する、大事な経典>

本来「空」を説く経典なのですが、(空の話は難しいので触れません)
日本では、かつて神社で読誦されたり、
霊験あらたかな真言として受けとめられたり、
江戸時代には文字を読めない人々のために絵で表現したりと、
様々な経緯があり、またその厳選された文字数の少なさも人気の一つで、
現在では写経の際によく筆写される大変ポピュラーな経典ですね。
この経典の末文
「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」
(ぎゃてい・ぎゃてい・はらぎゃてい・はらそうぎゃてい・・・・・・・・)
をある高僧がNHKのテレビで解説されてましたが、
「行こう、行こう、さあ行こう、皆で行こう、仏の国へ・・・」
へえ、うまいこと言うもんだなあ・・・と思いました。
このことはつまり、般若心経が大乗経典であることを意味しています。

ところで、日本で流布している仏教・・・所謂葬式仏教は、
当然の事ながら全て大乗仏教と考えられます。
しかし日本の主な宗派と般若心経の関係は一様ではありません。
天台宗・真言宗・禅宗(曹洞宗・臨済宗・黄檗宗)が般若心経を使っています。
浄土真宗と日蓮宗は、それぞれ「浄土三部経」と「妙法蓮華経」が
根本経典ですので、般若心経を唱えることはないでしょう。
浄土宗では唱えることもあるようです。(葬儀以外で)

さて、ではご質問の、
<お葬式(浄土真宗)のとき、友人が写経した般若心経をお供えしたところ、
お寺様に下げてくださいと言われました。>ですが、
何の説明もなしにご友人の気持ちを否定するような行為はいただけません。
ましてや、同じ大乗仏教の経典です。
見識と包容力がある僧侶ならば、違った結果を導いていたのでは。
そう思うと少し残念なお話です。
葬儀の本来の意義を見失っている僧侶がいることは嘆かわしい。
儀礼や作法やお勤めが、お葬式の主役ではないでしょう。
送る側の気持ちを大切にしてもらいたいですね。
また真宗という一宗派の小さな殻に留まらず、
仏教という観点からも、布教のチャンスだったはず。(重ねて残念)
形骸化した葬式仏教の一端が垣間見えます。(でもこれが現実)

次に葬儀屋さんの白い手袋ですが、宗教的な意味はありません。
他業種にも見受けられるユニフォームの一種(パーツ)とも考えられますし、
案内や指示が分かりやすいという利点もあるでしょう。
業務内容によっては、遺体衛生保全や防疫効果を期待することもありますが、
通夜・葬儀の現場においては、昔から白い手袋をすることが多かったですね。
見ようによっては、昔からの習慣という捉え方も成り立ちます。

あくまでも私個人の意見ですので、ご参考にしてください。
ついでに、答えるのに長くなる質問は楽しいけどきついわ。  (井手一男)

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 15:15 | トラックバック(5)

2006年02月24日

お葬式でのお焼香の回数について教えてください

神奈川県の平凡な主婦の石川と言います。
中学2年の娘と、優しい夫と、私の母と4人暮らしです。
最近、お通夜やお葬式に参列することが多くなり、寄る年波を実感しています。
私もいつまでも物知らずでは恥ずかしい年になりました。
そこでお聞きしたいのですが、お葬式の際の焼香の回数には、
マナーや決まりがあるのでしょうか。
「一回焼香でお願いします」と葬儀屋さんに言われたことがあるのですが、
周りの人を見てみると3回焼香の人が多い気がしました。
テレビの<みのもんた>さんに質問しようかとも思いましたが、
畑違いでしょうしそんな勇気もありません。
冠婚葬祭マナー本にも色々なことが書いてあって良く分かりません。
ちなみに私の実家は真言宗ですが、嫁ぎ先の石川家は曹洞宗です。
宗派のこともお焼香の回数に関係していると伺ったこともございます。

(この質問はダミーです・・・石川ありがとう)

通夜・葬儀でのお焼香の回数は、皆さん気にされているようですね。
自分だけ焼香の回数が違うと何だか恥を掻きそうだし、
自分だけ回数が少ないと、ご冥福を念ずる気持ちが弱いと思われるのでは
・・・あれやこれや、知らない世界だけに不安ばかりが先立って、
それこそご冥福を念ずるどころではなさそうですね。

焼香の回数やその作法と、宗派の関係は以下のようになっているようです。
ただし、絶対的なものではありません。
難しい話は抜きにしますので、ご参考にしてください。

浄土真宗本願寺派…一回
真宗大谷派…二回
曹洞宗…二回(線香は一本)…焼香の回数に決まりはないとも
浄土宗…一回・二回・三回
日蓮宗…三回
臨済宗…三回…焼香の回数に決まりはないとも
真言宗…三回(線香は一本)
天台宗…三回…焼香の回数に決まりはないとも

ここで大切なことは知識や作法ではなく、亡くなられた方のご冥福を心から念
じ、遺された方へのお悔やみの気持ちをしっかりと伝えるということでしょう。
そういった意味では、焼香の回数にこだわり過ぎるのはよくありません。
自分の信じる宗派があれば、その作法に則ったやり方でも構いませんし、
多くの参列者がいれば、マナーとして一回焼香で済ませることもあるでしょう。
極端な話、キリスト教徒であれば十字を切って祈ってもいいわけです。
心からの気持ちを大切にして、ご焼香されたらよろしいと思います。

(質問はダミーですが、答えはダミーではありません)

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 20:53 | トラックバック(6)

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