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2006年04月08日

悲嘆サポート・自助グループの苦悶 (加藤直美)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

以前、弊社HPのエッセイにも書いたが、
私は18年という長い悲嘆からの立ち直りを経験している。
詳しいことはここでは割愛するが、私自身の悲しみを乗り越えるために、
何年もかけて色々な場所を尋ね、様々な学びを重ねた。
その中で、ある「悲嘆の会」と出会った。

初めて出かけた時は、その会をサポートするNPO団体代表者の講演会だった。
その代表はどんな人かは忘れたが、多分○○大学教授とか、
どこかの代表というような偉い人だったと思う。
話の内容から、その方自身は特に悲嘆の体験が無いということが分かった。
非常に学術的、教科書的な話で「敷居が高い」と感じた。
「誰かが、こう言っていました」とか
「ある本には、そのように書いてありました・・・」的な、
よくあるたとえ話ばかりで、心に響く言葉がなかったことを覚えている。
私はそれ以来、その会には顔を出さなかった。

それからしばらくして又、不思議なご縁で、その自助グループを訪問した。
これはその時の忘れられない出来事だ。
私が久し振りにその会に出向き部屋に入ると、
何だかとてもこわばった空気を感じた。
その日が年度末ということで、次年度への話し合いがされているところだった。
NPO団体の数人と自助グループの数人が、机を囲んで話し合っている。
初めて参加した私は
「今日は、帰った方がいいでしょうか・・・」と申し出たが
「せっかく来てくださったから、どうぞいてください」
と言われ、その場にとどまった。

聞いている内に、だんだんとその内容が分かってきた。
NPO団体の言い分はこうだ。
「この会は時として、お茶飲みばなしになるきらいがある。もっと前向きに悲
しみについて話したり、又、外部のそのような勉強会に参加して、もっと成長
することが必要だ」と・・・。
その人の語気がとても強く、押し付けているような圧力を感じた。
NPOとしては、この会をサポートする以上、
何かきちんとした形にしたいという思いが強いのだろう。
悲しみから少しずつ立ち直り、今度は立ち直った人が、
新しい悲しみの方のためにサポートできるようになって欲しいと、
主張しているのだ。それは私もよく分かる。
そして自助グループの言い分はこうだ。
「もうすでに2年くらいこの会に参加しているが、新しい人も来たり来なかっ
たり、常時参加者も5人程度。いつもの顔が揃えば、世間話や茶飲みばなしに
なるのは仕方がない」
「そんなことを言われても、私たちはこの場所に来るだけで精一杯だ」と・・・。
長い間にたまりにたまった気持ちを臆することなく吐き出している。

私は思った。NPOと自助グループと、
双方のコミュニケーションがここまでこじれた原因は何か・・・。
初めて参加した私の目前で繰広げられる様子に驚くと共に、
NPOという立場で悲しみの方々をサポートすることの難しさを垣間見た。
「悲嘆サポート」自体、訓練されていない
ただのボランティアが出来ることではない。
それなりの勉強をして、経験を積んだNPO団体の、
選ばれたスタッフたちが支えているのだと思う。
そしてその言い分も正しいことばかりだ。
「前向きに」
「勉強をして」
「次の悲嘆の方を支える」
「話しを反らしてはいけない」
「決め事通りに進める」
「軌道を外さずに」・・・。
悲嘆のカウンセリングという中で、ファシリテーター(中立者)が
守らなくてはいけない、正しいことばかりだ。

しかし、時として訓練された人、専門的な人、勉強を積んだ人は
「こうあるべき」
「こうしなくてはいけない」
「きちんとしなさい」
「ちゃんとしさない」的なことを言う。
「何かを言ってあげなくては・・・」
「どうにかしてあげなくては・・・」と思うがゆえの言葉だ。
せっかくのその想いもここまで強すぎると、相手は気持ちを引いてしまう。
言っている側も相手が何を思っているのか、
「本当はどうしたいのか」を見失って行く。

しかし「本当はどうしたいのか」
そしてグループとして「どう成長して行きたいのか」は、
NPOの人たちが決めることではない。

「私自身はその時、どうしたいと思って、その会に行ったのか・・・」
私は純粋に、自分の悲しみと向き合いたかった。
その思いをじっと見つめたい。
思ったことを言葉にしたい。
自由に自分の想いとして吐き出したい。
答えはいらない。
指示も命令もいらない。
話しが脱線することを許してほしい。
私が言っていることが正しいとか間違っているのかを聞いているのではない。
ただ私の話しに耳を傾けて欲しい・・・。
私はここに、勉強しに来ているのではなく
「ただ悲しみをつぶやきたいだけ」なのだ。

人の悲しみは「理屈、理論」ではない。
常に揺り動き変化する生き物だ。
カウンセリングとか、心理学だとかの「枠」にはまるものでもない。
他の誰かがこう言ったとか、他の誰かはこうだったとか、
他人の事例なんか横に置いて欲しいと、思っていた。
私自身のことを聞いて欲しいと思っていた。

この場所で何が行なわれるのが正しいことか・・・それは
「そこにいる悲しみの人が、今、ここでどうしたいか」が唯一の答えだと思う。
ここはカウンセリングや心理学研究所、大学の研究会のような場所ではない
「市民のための自助グループ」だからこそ、どのような人にもやさしい、
自由な場所であって欲しいと心から思った。
もちろんサポートする人には、専門的な訓練が必要だ。
でもそれは、悲嘆の方々に押しつけるものではないと思う。
その後の、このグループの消息は知らない。
そして、私の悲嘆もその時からしばらく封印された。
私はそれからしばらく悲しみを表現する機会を失った。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2006年04月08日 00:05

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