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2010年12月06日

将棋の街、天童へ行く・・・の巻 その2 (井手一男)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

♪♪なめたらあかんーなめたらあかんー人生なめずに、これ舐めよ♫
「天童よしみ」じゃないけど、どうして天童市が将棋の街になったのか?
それなりに歴史があるみたいだ。
私が訪れた、ごく短時間の様子からだけど、
どこもかしこも将棋の街です・・・といったイメージではない。
勿論、年に一度、人間将棋をやるくらいの街のイメージは全国にあるだろう。
実際、将棋駒生産では全国のシェア95%と飛び抜けている事実もある。
では何故将棋なのか、いつからなのか、将棋のルーツと共にその当たりを探ってみよう。

天童市の駅の下に天童市将棋資料館があり、色々と紹介してくれていた。
将棋のルーツは、古代インドにおいて遊ばれたチャトランガという、
サイコロ将棋であるといわれています。
世界の盤ゲームは左右にクロスした線の上を移動するパターンだが、
日本の将棋はマス目を移動するという特徴がある。
日本に伝えられた時期は明確ではない。
平安時代の11世紀ごろには、既に遊ばれていたことがわかっています。
以来、日本将棋は独自の発展を遂げてきた。
この辺り、仏教徒の関連が出てこなくて残念である。
(知りたい、無理にでも関連づけたい気持ちだ)
ただ室町時代に入り、つまり武家社会以降、
武士の間で軍略・戦略を学ぶために将棋が奨励されたことは事実のようだ。
ただし天童で将棋駒生産が盛んになるのはずっと後のことであり、
記録によれば、江戸時代、財政窮乏に苦しむ天童織田藩は、
米沢藩から学んだ駒作りの技で財政再建を目指し藩士に奨励したとある。
それがうまくいったかどうかは別として、明治に入ってから(150年前)
本格的な将棋駒大量生産地となっていったようだ。
だから、有名になったのは近代に入ってからのことであろう。

子供たちは相変わらず元気でうるさい。
資料館に入ってからもパソコンを使って将棋ゲームに興じていたり、
もの珍しそうに将棋のルーツとなった各国のボードゲームに見入っている。

将棋のルーツに関しては別の見方もある。
王(将)と玉(将)との違いは前回述べたが、まさにこの字をどう見るかで、
つまり将棋のルーツは戦争ゲームではなく、宝探しゲームだったのではないか。
なるほど金や銀という駒もあるし、桂馬や香子なども宝石の一種だという意見もある。
そうなれば、藩士に奨励したのは宝探しゲームだったということになり面白い。
(テレビのワンピースみたいなものか)

我が埼玉県の狭山市には上記のような「左馬」の有名な看板がある。
その由来について資料館にあった。(勉強させてもらいました)
馬は右から乗ると躓いて転ぶらしい。(真偽のほどが不明)
元来、左から乗るもの決まっているらしく、
左馬は長い人生を躓くことなく過ごすことが出来、福を招くめでたいもの、
また商売繁盛の守り駒となっているらしい。

天童の街を後にして山形へ向かった。
県立美術館で開催中の放浪の天才画家山下清を鑑賞するためだ。
取り敢えず腹ごしらえに<板そば>を食う。
何年か前、研修に伺った時に教えてもらった一品である。
新潟の<へぎそば>と同じく山形の特徴的なそばだ。


(美術館と城跡)

山形県立美術館へ行き山下清展を鑑賞する。
面白い・・・創作過程の映像もあり故山下清画伯を偲べるのだが色々と参考になった。
TV番組のように各地を放浪して絵を描いたわけではなく、
学園に戻ってから一気に書き上げることが常だったらしい。
また欧州に旅行していて、その当時のペン画は秀逸である。
気が付けば午後3時・・・時間が無くなってきた。
帰路の新幹線の時間を気にしながら、近くの城跡や郷土資料館を覗く。
窓外に映る紅葉の目を引く美しさは、光とのコントラストから生まれるものなのか。

研修にプライベートにと、クタクタに疲れた3日間だった。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2010年12月06日 08:00

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