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2010年12月22日

徳島へ研修に行きました・・・ (井手一男)

カテゴリー : MCエッセイ 七転八起

徳島空港から高速バスで徳島駅へ。
予想とは違って意外なほど都会でした(若干のお世辞込ですが、ダハッ)。
そして予想通りだったのは、暖かい気候・・・嬉しいです。
風邪を拗らせて喉の調子が悪く、マスクを手放せない状態だったものですから、
四国徳島の温暖な気候には随分助けられました。
この日は風が強かったのですが、なんのなんの、なんのは南野 (古っ)
それでも暖かい。

いつも研修の話ばかりをしても詰まりません。
ですから今回は、駅から徒歩3分程度の場所にある
<阿波踊り会館>に寄った時の感想を。
ここにはK氏も同行したのですが、男二人で大きな荷物を持って大変でした。
ここが阿波踊り会館です。

では始まり始まり・・・さて、「阿波踊り」の起源とは何でしょう?
これには諸説があるようです。
最初から徳島城下固有の踊りとしてあったのではなく、
畿内で踊られていた「風流踊り」を筆頭に種々の踊りが城下の踊りとして取り入れられ、
街の発展と共に町衆に支えられて変化をしながら現在の「阿波踊り」となったようです。
しかも昭和20年以降に、見せる踊りとして大きく様変わりしました。
日本三大盆踊りの一つですが、ちょっと順を追って見ていきましょう。

「踊り」とひと一口に言っても様々あります。
旧暦の7月に踊られた「祖霊踊り」や死者供養のための「盆踊り」は、
寺院か神社の境内で踊られたものです。(昔はどこの地域もそうでした)
そういう意味では、かつての神社仏閣は庶民の生活の基盤となっていました。
私の小さい頃も盆踊りは寺の境内で行われていました。
その後、町内の小学生や中学生だけが集められ「肝試し」というのが恒例でした。
くじ引きで二人一組が作られます・・・そこから指令が・・・なかなか怖いものです。
だってお寺(神社)で過ごす盆踊りの後の遊びといったら、それしかあり得ません。
どこの家庭でも両親は飲んでいたり、婦人部のお手伝いで遅くまで活動するのが常。
子供会で子供の面倒を見るというのは当たり前の行事になっていたものです。
話を元に戻します。
盆踊りから変化していった踊りは、「精霊踊り」や「風流踊り」といったもので、
これらはやがて各地の芸能の影響を受けていきます。
「精霊踊り」は死者供養の踊りのことです。
全国各地に見受けられますが、呼び名もまちまちだったようです。
「回り踊り」「あやし踊り」「慰霊踊り」「仏踊り」と呼ばれ、どれも輪踊りでした。

我々の業界で有名な踊りは「念仏踊り」でしょう。
これは「精霊踊り」から発展したものだと思われます。
空也上人(平安時代)が布教目的のために鉦(かね)や太鼓で踊り、
念仏を広めたと言われています。
死者供養のために手に鉦を持ち、打ち鳴らしながら踊ります。
その鉦や太鼓は今でも葬儀の現場で使われることが多いですね。
その後「念仏踊り」は、鎌倉時代に入り一遍上人によって全国的に広められました。
念仏を唱えながら鉦や太鼓を打ち鳴らして踊り、悪霊を退散させようとするものです。

「風流踊り」の特徴は、人の目を驚かせる造り物や仮装などですが、
本来は畿内を中心に広まったようです。
小唄などの流行の歌謡やお囃子に合わせて、集団で踊られるようになりました。

さて、死者供養のための「盆踊り」ですが、
この阿波地方の民族芸能として各地で踊られているうちに様々に変化をしたようです。
地域ごとの呼び名も徐々に変化し「茂地の鉦踊り」「踊り念仏」「宅宮の神踊り」
「太刀踊り」「牟岐音頭」などと呼ばれ、死者供養だけに限らず、
平和を願う踊りから五穀豊穣、病気退散などを願うものまでが今でも残っています。

時代が近世に入り「盆踊り」としては「組踊り」「俄(にわか)」「ぞめき」
という三つの芸態がありました。
この中で普通に「盆踊り」と呼ばれるものは「組踊り」を指していました。
その「組踊り」は、それぞれの街から趣向を凝らし、
得意の出し物として披露され、技を競い合って盛況をきわめたそうです。
ところが幕末期、華美な衣装や出し物を用いる「組踊り」と「俄」は藩の規制を受け、
次第に下火となり、代わって「ぞめき」が盛んになります。
「ぞめき」とは「騒き」とも書き、誰でも自由に飛び入り参加できるものです。
(ぞめきは騒きで・・・浮かれ騒ぐの意)
間もなく明治になろうとする1867年、
「神の御札が舞い降りた、これは慶事の前触れだ」との噂が飛び交い、
各地で「ええじゃないか」を連呼する群衆の踊りが巻き起こります。
(ええじゃないかは、桃井さんと泉谷さん主演で今村昌平監督の映画にもなっています)
封建社会から新しい時代へと、世直しを求める騒然とした世相の中、
圧迫され続けてきた庶民の不満や怒りが爆発したものです。
徳島は「阿波踊り」の下地があっただけに最も激しかったようです。

明治に入り社会状況は大きく変化しました。
太陰暦が明治5年(1872年)12月3日をもって終わり、
太陽暦の明治6年(1873年)1月1日と改められます。
(この辺の事情は過去のエッセイにも書きました)
しかし馴染めない人たちは旧盆に踊ったそうです。
また、幕藩時代とは違い許可がなくても自由に、
どの街でも盆踊りが踊れるようになりました。
具体的には、それまで町年寄が届を出していたのですが、
これに代わって「願い人」が警察に届けるだけでよくなったのです。
中止になることは滅多になく、伝染病が流行した時くらいです。

昭和20年の終戦後、阿波踊りが徐々に注目を浴び、
マスメディアの発達に伴い<見せる踊り>に重点が置かれ、より変化します。
女踊りは、草鞋ではなく下駄を履くのが特徴で、艶っぽく、上品に踊るため、
縦へ縦へと見栄えが良くなるように変化します。

編笠も目元が見えないくらい縦に伸びますし、両手も高く上へ伸び恰好が良くなります。
足も縦方向へ動きを伸ばし、履物もすこし高いものを誂えるようになりました。
衣装のデザインも豊富に取り揃え、その素材は、綿系は滅多に使われなくなり、
ナイロン系の見栄えも良く、また洗いやすいものに変化しています。
男踊りの特徴は振りが大きく勇壮に、時には滑稽に、
そして「うちわ」や「手ぬぐい」を巧みに使います。
各地には「連」と呼ばれる踊り手の集団が次々と出来ました。

全国に連はあるのですが、徳島県内には有名連が数多く存在します。
徳島県民は、各々贔屓にしている連があるらしく、
「おっこの連がええのう」
「ほらやっぱりここの連やろ」
「ここの連があるでないで」
「○○連のきょうびのわかいしは、がいなんおらんでよ」


(レレレの連という連もあるそうですよ)

徳島市の駅の近くにある阿波踊り会館は、本当に色々なことを教えてくれました。
実際に阿波踊りのショーもあり、素人も参加もできるんですよ。
私は、見られていることを完全に意識した「阿波踊り」という盆踊りが好きです。
徳島市の阿波踊りには毎年130万人以上の人出がありますが、
夏場の暑い時に家族を連れて遊びに行ってみたい・・・そんな場所です。

投稿者 葬儀司会、葬儀接遇のMCプロデュース : 2010年12月22日 08:00

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